ざっくり【歴史】オランダ王国が誕生する前を遡る
(ネーデルラントの変遷)
オランダの歴史をざっくり1ページにまとめました。数ページにわたるマトメはこちら ⇒ オランダの歴史 詳しいまとめに置いています。
オランダ王国が、現在知られる王国として歩み始めたのは意外と近代になってからで、1839年のことです。オランダ王国の前身は「ネーデルラント王国(1815)」といい、その領域には現在のベルギーとルクセンブルクを含んでいました。
もくじ
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ローマ支配期からスペイン領に至るまで(前57-)
ローマ支配期
ネーデルラントとは低地の地方という意味です。現在のベネルクス3国に相当する低地地方が文献資料に最初に登場するは、ローマ帝国時代です。
紀元前57年頃から現ベルギーと現オランダ南部に相当する地域が帝国に征服されますが、現オランダ北部に相当する地域に居住していたフリース人は屈強で、支配を受けることなく交易等でローマ帝国と関わりました。
フランク王国期
弱体化したローマ帝国が撤退した紀元406年より後は、ゲルマン系民族のサクソン人・フリース人・フランク人が割拠し、ネーデルラントはやがて誕生するフランク王国(481-987)に呑み込まれます。
カール大帝(742-812)の時代に最大版図を記録したフランク王国ですが、大帝の孫の世代(843)に東・中央・西に3分割されます。
ネーデルラントは中央フランク王国(ロタールの国)の一部となり、やがて、東フランク王国を継いだザクセン公ハインリヒ1世によって併合(925)され、いわゆる神聖ローマ帝国の一部となりました。
なお、神聖ローマ帝国の始まりは、日本では962年のオットー1世からと見なし、ドイツでは800年のカール大帝からと見なすそうです。
ヴァイキングの襲来と定着
9世紀後半-10世紀はノルマン人(北欧ヴァイキング)が頻繁に襲来した時代です。フランク各王国の支配者は、ヴァイキングに封土を与えて味方につけ、他のヴァイキングの侵攻を防ぐ策もとりました。こうして土地に根付いたノルマン人の子孫が後世の有力な貴族になることがあったかもしれません。
オランダでは、ホラント伯の始祖ゲルルフをノルマン人とする説があるようです。(少し逸れますが、西フランクのノルマンディ侯国が有名です。その子孫は11世紀にイングランドに侵攻してノルマン王朝を建てました。)
領邦国家の発展とブルゴーニュ家
さて神聖ローマ帝国皇帝に従うのは名目に過ぎず、ネーデルラントの地方領主は権力と広大な土地を手に入れて独立性を高め、10-14世紀頃には多くの領邦国家が形成されていました。
やがてネーデルラントのほとんどが婚姻政策や買収によってブルゴーニュ侯の支配下に収まり、女侯マリー(1457-1482)が継承します。ただし、そのとき本来のブルゴーニュ領はフランスに接収され、彼女が相続したのはネーデルラントのみでした。
スペイン王国期
このマリー女侯がハプスブルグ家のマクシミリアン王子と結婚したため、ネーデルラントは事実上ハプスブルク家の支配下に入ります。
そして、マリーの息子フィリップがスペイン国王の次女フアナと結婚し、このフアナにスペイン王位継承権が転がり込んだことによって、フィリップはスペイン国王フェリペ1世となりました(1504)。
この時点で、ハプスブルク家とスペイン王国が合体し、ネーデルラントはスペイン王国の一部となったのでした(フリースラントの併合は1524年)。
次代のカルロス1世は、マクシミリアンが没した際にハプスブルク家の本領も相続し、スペインとオーストリアとネーデルラントが同一の王の下で治められることになりました。
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ネーデルラント7州連邦共和国(1648)
「ネーデルラント7州連邦共和国」の誕生は1648年です。スペインからの独立で誕生しました。ネーデルラントと呼ばれていたこの一帯は、上述のように当時スペイン=ハプスブルク家の支配下にあり、事実上スペイン領とされていました。
ネーデルラント諸州の人々が抱いていたスペイン本国への不満は、例えば当時盛んであった商工業の利益を押さえられたことや、新教徒(プロテスタント)の弾圧に対するものなどでした。
1568年に始まる対スペイン戦「八十年戦争」は、当初こそ独立までの意図はなかったものの、その結果から後世の外国では「オランダ独立戦争」とも呼ばれるようになりました。
1648年というのは国際的に独立が承認された年です。独立宣言はしていませんが、「1581年の北ネーデルラント7州の連邦議会によるスペイン国王廃位令」がそれに充たるとみなされることがあります。
スペインからの独立で誕生した「ネーデルラント7州連邦共和国」こそが、今日のオランダの原型と言われる歴史の出発点のひとつです。なので「オランダの歴史」と題された本を買っても「八十年戦争」あたりからしか書かれていない…ということがあります。
バターフ共和国(1795)
フランスの啓蒙主義の影響を強く受けていたのネーデルラントの愛国者運動派によって、それまでの「ネーデルラント連邦共和国(1648)」に取って代わって新しい国が作られました。
「バターフ共和国(1795)」とは、フランス革命直後に宣言された国で、フランスの傀儡国家あるいは衛星国家であったと言われています。バターフ共和国はフランスと同盟条約を結んでいましたが、フランスに有利なものでした。
ホラント王国(1806)- フランス併合時代(1810)
フランス皇帝ナポレオンは「バターフ共和国(1795)」を廃して、「ホラント王国(1806)」を作りました。
その王位にナポレオンの弟ルイ・ボナパルトを就けた後、ランブイエ勅令を発して「フランスに併合(1810)」したのです。
ナポレオン戦争中(1803-1815)の同領域は、フランスに併合されており、アムステルダムはフランス帝国の第三首都となっていました。
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ネーデルラント王国(1815)-オランダ王国(1839)
ベネルクス3国の前身の「ネーデルラント王国(1815)」は、ナポレオン戦争後に誕生した王国です。1815年のウィーン会議によって成立しました。
1830年にベルギー国がネーデルラント王国からの独立を宣言し、その独立を1839年に認めるに至って「オランダ王国(1839)」が誕生することになります。
初代オランダ国王はネーデルラント国王と同じで、オラニエ=ナッサウ家のウィレム1世(在位1815-40)です。以降、現代まで同王家が続いています。
オランダ国王はルクセンブルク侯を兼ねていましたが、1890年にナッサウ公のアドルフがルクセンブルク侯となり、オランダとの同君連合を解消して分離しました。こうして、現在のオランダ王国、ベルギー王国、ルクセンブルク公国という、「ベネルクス3国」が形作られました。
まとめ
ネーデルラントの変遷:
⇒先史時代
⇒ ローマ帝国領(中南部のみ)
⇒ フランク王国領
⇒ 中央フランク(ロタール)王国領
⇒ 東フランク王国に併合( = 神聖ローマ帝国の一部)
⇒ 領邦国家の発展
⇒
ブルゴーニュ公領(ヘルレ侯領とフリースラントを除く)
⇒ ブルゴーニュ・ハプスブルグ家支配下
⇒ スペイン + オーストリア ・ハプスブルグ家支配下(フリースラントとヘレル侯領も併合)
⇒
ネーデルラント連邦共和国の誕生(独立)
⇒ バターフ共和国
⇒ ホラント王国
⇒ フランス支配下
⇒ ネーデルラント王国(復活)
⇒ ベルギー国の独立、オランダ王国の誕生とルクセンブルク大侯国の分離
国境線と支配者の流れがなんとなくわかったところで、いつか主要な人物や出来事を年表を追いながら見てみたいと思います。文化や技術、社会の変化についてもいつか…。