スペインでは王家の次女フアナが女王として即位し、その夫であるハプスブルク家のフィリップが王となりました。 ここにスペイン王国とハプスブルク家が合体することになり、低地地方はハプスブルク所領のままスペイン王国の一部となります。 ゲント(Ghent、現ベルギー)で生まれたカールは、この広大な領土を相続してスペイン国王カルロス1世および神聖ローマ皇帝カール5世となりました。

低地地方はハプスブルク家の中央集権化に反対する動きをみせますが、抑え込まれます。 カール5世は周辺諸国との戦いに明け暮れ、低地地方を含むスペイン領とともに息子のフェリペ2世にこれらを引き継ぎました。 戦費を賄うために低地地方の税金が大幅に上がりました。 (神聖ローマ帝国領はカール5世の弟フェルディナントが相続しました。)

一方でルターやカルヴァンに代表される宗教改革の興隆は低地地方にも波及しました。 カール5世やフェリペ2世によって異端審問所が設置されて弾圧が行われ、新教徒の反抗を呼びます。 司教区が再編され、権益を失った地元の中小貴族の不満も高まりました。

低地地方の貴族は同盟を結び「異端審問の緩和」と「全国身分制会議の招集」を求めて請願書を提出します。 一定の承認は得られましたが、カルヴァン派の抗議行動は続きました。 (請願書提出のとき、政府高官に「乞食ども」と呼ばれたことから後に自ら「乞食党」を名乗るようになります。)

幾人かの大貴族も国王フェリペ2世への忠誠を拒絶して、処刑されたり国外への逃亡を余儀なくされました。 このときドイツに逃れた一人が、後に祖国の父として知られるオランイェ公ウィレムです。 彼の財産は没収され長男は人質に取られました。

フェリペ2世から大幅な権限を与えられて執政に就いたアルバ侯は、騒擾評議会(血の評議会)を設置し残虐な新教徒狩りを行いました。 このようなスペイン支配を振り払うべく、ネーデルラントの反乱(80年戦争)は始まります。 当初は独立を目指したものではありませんでした。

ハプスブルク家スペイン王国の支配のはじまり

1504年:ブルゴーニュ侯フィリップ4世がスペイン国王フェリペ1世になる
上位の王位継承権者の相次ぐ死亡によって、次女のフアナにスペイン王位(アラゴン+カスティーリャ)の継承権が転がり込む。 フアナの女王即位に伴って、夫であるハプスブルク家ブルゴーニュ侯フィリップ4世がスペイン国王フェリペ1世となる。
1504年:ネーデルラントがスペイン支配下に入る
ハプスブルク家ブルゴーニュ侯フィリップ4世がスペイン国王フェリペ1世として即位したことによって、ネーデルラントはハプスブルク家の所領のままスペイン王国の一部ともなる。
1504年:メヘレン高等法院の復活
大特権に反しており、諸州の反感を買う
1506年:スペイン国王フェリペ1世(ブルゴーニュ侯フィリップ4世)がブルゴスで急死
フェリペ1世の長子カールが継ぎ、ネーデルラントはカールの父方の祖父マクシミリアン1世が再び摂政となる。 カスティーリャとアラゴンについては、カールの母方の祖父フェルディナンドが摂政となる。
1507年:マクシミリアン1世の娘マルガレーテが全州総督になる
マクシミリアン1世の娘でフェリペ1世の妹にあたるマルハレータが、全州総督としてネーデルラントの統治にあたる。
1511年:エラスムス著「痴愚神礼讃」の発行
福音と寛容を重視する著作で、当時の王侯貴族にも支持をえた。
Portrait by Hans Holbein the Younger , 1523 / Door Hans Holbein de Jonge – 1. Onbekend2. GalleriX, Publiek domein, Koppeling

痴愚の女神モリアー(モリアエ)が聴衆を前に大演説会を開き、聖書伝説やギリシア・ローマの古典からの夥しい引用、縦横に繰り出される警句とともに人間社会の馬鹿馬鹿しさや繰り広げられる愚行を饒舌に風刺するというものである。痴愚女神は軽妙洒脱な語り口をもって王侯貴族や聖職者・神学者・文法学者・哲学者ら権威者を徹底的にこき下ろし、人間の営為の根底には痴愚の力が働いているのだ、人間は愚かであればこそ幸せなのだ、と自画自賛の長広舌を繰り広げる。痴愚女神モリアー Moria の名前はギリシア語で「痴愚」「狂気」を意味する語であり、モア More のラテン名モルス Morus から連想されたものである。本書はトマス・モア(英)に捧げられている。 痴愚神礼讃 | Wikipedia

1516年:スペイン国王カルロス1世の治世が始まる
Portrait by Bernard van Orley of Charles V, 1519 / By Bernard van OrleyewHJSkTHKAO0kg, Public Domain, Link
カールの母方の祖父フェルディナンド(摂政)が死去し、カールがスペイン王カルロス1世となる。 カルロス1世が継承した領土は、アラゴン(ナポリ王国、シチリア王国、ミラノ侯国を含む)、カスティーリャ(グラナダ王国)。 称号は、スペイン国王(1516-)、ドイツ王(1519-)、神聖ローマ皇帝(1519-)ほか多数。
(1517年:ルターによる「95ヶ条の論題」)
1483年:マルティン・ルターが生まれる ⇒ )ルターがアルブレヒトの「指導要綱」に贖宥行為の濫用がみられるとして書簡を送った。活字印刷の技術も手伝って、ルターの改革思想は広く欧州に伝達されることになる。

この贖宥状批判は大きな反響を呼んだ。この批判はグーテンベルクの活版印刷術によりまたたくまに各地に拡大し、ローマ教皇に嫌悪を抱いていた周辺の諸侯、騎士、市民、農民を巻き込んでドイツ社会に影響を与える。(中略)当初ルターに新宗派を創設する意思はなく、あくまでもカトリック教会内部の改革を望んでいたのだが、対立は先鋭化し、1520年には教皇レオ10世はルターが自説の41か条のテーゼを撤回しなければ破門すると警告したが、ルターはこれを拒絶。(中略)1521年にルターは破門され、ここでルターはカトリックと完全に絶縁し、新しい派を立てることとなった。(中略)ルターはザクセン選帝侯フリードリヒ3世にかくまわれ、ヴァルトブルク城で1年余りを過ごすことになる。ここでルターは新約聖書のドイツ語訳を完成させ、このルター聖書は後のドイツ語の発達に大きな影響を与えたとされるほど広く読まれることとなった。 宗教改革 | Wikipedia

1519年:マクシミリアン1世の死去とカール5世の即位
マクシミリアン1世が没し、ハプスブルク家の本領もカールが相続。 スペインとオーストリアが一人の王のもとに統一される。 同年、カールは神聖ローマ皇帝にも選出される。
1520年頃:ルターの思想がオランダに流れ込む
ドイツからルター派が流れ込み、カルロス1世がこれを禁止する。ハプスブルクの中央政府は、宗教的多様性が政治的不安定につながることを懸念して反対した。
ルターとエラスムス

ルター自身の活発な活動により、事態は過激化・複雑化し、当時のドイツ情勢とからんで政治問題化していった。このような状態はエラスムスの想定を超えたものであり、徐々にルターとエラスムスの思想の違いが明らかになっていった。エラスムスはあくまでキリスト者の一致が最優先事項と考えており、教会の分裂を望んでいなかったのである。結果的にエラスムスはルターに反対する立場の人たちとルターを支持する立場の人たちの両方から疎まれるという難しい立場に立つことになった。 デジデリウス・エラスムス | Wikipedia

1522年:カルロス1世がネーデルラントに異端審問所を開設

異端審問とは、中世以降のカトリック教会において正統信仰に反する教えを持つ(異端である)という疑いを受けた者を裁判するために設けられたシステム。 異端審問を行う施設を「異端審問所」と呼ぶ。 異端審問 | Wikipedia

1525年:ヤン・デ・バッカー の焚刑
信仰の違いによって処刑された、北ネーデルラントで最初の人物。(⇒Jan de Bakker
1524年:フリースラントの内戦と反乱に乗じて、カール5世(カルロス1世)がフリースラントを併合
フリースラントの内戦(1350–1498)に介入したハプスブルク家に対する農民の反乱(1515)が起こった。 これに、ヘルダーラントの小貴族も参戦し、ヘルレ侯も資金援助を行った(後に取り下げ)が、 反乱は主導者の病没後に鎮圧され、フリースラントがハプスブルク支配下に組み込まれて終わる。
1526年:風向きに合わせて羽の向きを変えられる風車の登場
1527年:ウィンデスヘイム修道院の解散
1387年:ウィンデスヘイム修道院の建設⇒)
1528年:カルロス1世がユトレヒト司教領を併合
1530年:カルロス1世の妹マリーがネーデルラントの全州総督(執政)になる
カルロス1世の叔母マルハレータに代えて、妹のマリーをネーデルラントの全州総督(執政)に任命
1533年:オランダの”祖国の父”ウィレムが生まれる
後世、オランダの”祖国の父”と呼ばれる英雄で別称はウィレム寡黙公。 ドイツ西部の小都市ナッサウを拠点にしてその地方を支配していたナッサウ伯家の長男として生まれる。 ドイツ語読みの名はウィルヘルム。ナッサウ伯家の信仰はルター派で、ウィレムもこれに親しんで育つ。(⇒1544年:ウィレムがオランイェ公国を継ぐ
1536年:カルロス1世がフローニンゲンを支配下に置く
フローニンゲン市はヘルレ侯の支配下にあったが、カルロス1世がこれを獲得。
1540年頃:カルヴァンの思想がオランダに流れ込む
フランスからカルヴァン派が流れ込む。1550年以降は北ネーデルラントで最大のプロテスタント勢力となる。

カルヴァンはすでにギョーム・ファレルによって宗教改革が始まっていたジュネーヴに立ち寄った際に、請われて留まりそこで活動するようになった。ルターの宗教改革が信仰の改革に徹していたのに対し、カルヴァンは礼拝様式と教会制度の改革に着手した。(中略)1549年にはチューリヒの宗教指導者でツヴィングリの後継者だったハインリヒ・ブリンガーとカルヴァンおよびファレルが会談し、教義上の一致をみて両派は統合され、カルヴァン派(またはカルヴァン・ツヴィングリ派)となった。 宗教改革 | Wikipedia

1543年:フェンロ―条約でヘルレ侯国がカルロス1世の支配下に入る
現在のオランダの地がすべてカルロス1世の支配下に置かれる。ネーデルラントはリェージュ司教領を除いて全17地方がカルロス1世のもとで統一された。
1544年:ウィレムがオランイェ公国を継ぐ
William the Silent in 1555 / By Antonis Mor, Public Domain, Link
ウィレムの従兄弟オランイェ公ルネ・ド・シャロン( René of Châlon) には子がなく、ナッサウ伯家のウィレムを相続人として指名。 「カトリックの教育を受けること」が条件だったが当時11歳だったウィレムに代わり父がこれを黙認してオランイェ=ナッサウ家の始まりとなる。 ウィレム1世は、オランイェ公国と現ドイツ内の重要な土地、そしてネーデルラントの広大な土地を継承。 ウィレムが成人するまで神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン国王カルロス1世)が摂政となる。 ウィレムはネーデルラントに送られ、最初は一族の領地ブレダで、のちに移ったブリュッセルでは執政のマリーのもとで、ローマ・カトリック教会の教育を受けて育つ。 ブリュッセルではまた、外国語や軍事と外交についても学んだ。
1548年:ネーデルラントをドイツ王国から切り離す
カルロス1世はネーデルラントをブルゴーニュ領域(クライス)としてドイツ王国から切り分けることを認めさせ、以後、ドイツ王の裁判権が及ばない地域となった。
1549年:カルロス1世の国事詔書と息子フェリペのネーデルラント入邦
ネーデルラントの各州について、一体で不可分のものとして受け継がれてゆくことを定め(相続順位法)、各地方には自治的特権を認めた。
1550年:血の布告
カルロス1世が、死刑を持って新教徒を弾圧にのりだす
1555年:アウグスブルクの宗教和議
神聖ローマ帝国のアウグスブルクで開かれた帝国議会で、ドイツと中欧地域においてルターの信仰を容認する決議がなされた。ただし、支配者の宗教を臣下が受け入れなければならないものであった(領邦教会制)ので、ネーデルラントについては、その支配者カルロス1世の信仰がカトリックである以上、カトリックに留まる義務を負った。またカルヴァン派の信仰は認められなかった。いずれにせよ、これによってハプスブルク家が目論んでいた「カトリック教会を介した(中央集権的)帝国支配」はとん挫する。
1555年(10月):カルロス1世の引退とフェリペ2世の即位、フェリペ2世は国務評議会員の一部を無視
Titian portrait of Philip as prince (1554), aged about twenty-four dressed in a lavishly decorated set of armour. / By Titian, Public Domain, Link
フランスとの戦争が決着をみないままカルロス1世は55歳で引退し、王位を息子のフェリペ2世に譲った。 (カルロス1世はスペインの修道院に隠遁し3年後に死去する。) –>

八十年戦争までの出来事

1559年:フェリペ2世によるネーデルラントの司教区の再編
フェリペ2世は、司教区の数を増やし新教徒の取り締まりを強化した。 (すでに1522年にカルロス1世が司教区の再編を試みているが、 ネーデルラント諸邦は自治を損なう中央集権化の一環とみなしてこれを回避している。)
1559年:カトー・カンブリジの和平でフランスとの戦争に決着

16世紀前半のイタリアを巡る戦争(イタリア戦争)を争ったヴァロワ朝(フランス)とハプスブルク家(オーストリア・スペイン)が1559年に結んだ講和条約。 同年にスペインのフェリペ2世がフランス王アンリ2世の娘エリザベートと結婚したおかげで実現した。 (中略)1555年アウクスブルクの和議でカルヴァン派が否定された。翌年、カルヴァン派市民のいるネーデルラントがスペイン領となった。そして1559年にカトー・カンブレジ条約が成った。ほどなく、フランス内でカトリーヌ・ド・メディチがユグノー戦争の主因となった。 カトー・カンブレジ条約 | Wikipedia

1559年:フェリペ2世がネーデルラントを去り、異母姉マルハレータ(パルマ侯妃)が全州総督(執政)に就く
実権はグランヴェル枢機卿が握りはじめ、彼はネーデルラントの貴族を国務評議会の協議から排除しようとした。
1561年:オランイェ公ウィレム1世がザクセン侯家のアンナと結婚(ウィレム2度目の結婚)
グランヴェル枢機卿の忠告に反した結婚だった。ザクセン侯家のアンナは、ドイツ帝国内におけるカルロス1世の仇敵のひとりの娘。
1562年:グランヴェル枢機卿の解任
グランヴェル枢機卿に不満をもつ貴族がオランイェ公ウィレム1世のもと同盟を組み、グランヴェル枢機卿の解任を国王に要求。 執政マルハレータもグランヴェル枢機卿を快く思っていなかったこともあり、グランヴェルはネーデルラントを去ることになる。
(1562年:フランスでユグノー戦争はじまる)

フランスのカトリックとプロテスタントが休戦を挟んで8次40年近くにわたり戦った内戦である。ドイツに始まった宗教改革運動は各国に広まったが、ジャン・カルヴァンの思想がフランスでも勢力を持ち、プロテスタントはカトリック側からユグノー(huguenot)と呼ばれた。ユグノーには貴族も加わり、弾圧にもかかわらず勢力を広げていった。1562年にカトリックの中心人物ギーズ公によるヴァシーでのユグノー虐殺事件(ヴァシーの虐殺)が契機となり、内乱状態になった。妥協的な和平を挟んだ数次の戦争の後の1572年8月24日には、カトリックがユグノー数千人を虐殺するサン・バルテルミの虐殺が起こっている。 ユグノー戦争 | Wikipedia

1566年(4月5日):貴族同盟が諸権利の尊重を求めて執政に請願書を提出(乞食党)
400人以上の小貴族が署名した請願書が200名の武装した男たちにより提出される。 政府高官のひとりが集まった貴族に「乞食ども」と言ったことから、貴族たちは自ら「乞食党(ヘーゼン)」と誇らしく自称するようになった。
1566年:聖画像破壊運動の広まり
Print of the destruction in the Church of Our Lady in Antwerp, the “signature event” of the Beeldenstorm, August 20, 1566, by Frans Hogenberg / By Frans Hogenberg – Geschiedeniswerkplaats Dynamiek en stagnatie. Noordhoff Uitgevers., Public Domain, Link
ネーデルラントの聖画像破壊運動は南部から始まり勢いをもって北部まで広がった。執政マルハレータはカルヴァン派に対し、公の礼拝を許可せざるを得なくなる。
1567年初頭:大貴族の幾人かが国王フェリペ2世への忠誠を拒絶
金羊毛騎士団、高級官僚や将校らは、フェリペ2世に改めて忠誠を誓うことを求められたが、オランイェ公やホールネ伯ら幾人かの大貴族がこれを拒んだ。
1567年(8月):アルバ侯が血の評議会を設置して新教徒を弾圧
カルヴァン派の活動および聖画像破壊運動を抑えるため、フェリペ2世はアルバ侯3世に1万余りの軍隊をあずけてネーデルラントに派遣。 軍隊はさらに増員され1572年には6万におよんだ。 アルバ侯は「騒擾評議会(そうじょうひょうぎかい)」別名、血の評議会という特別法廷を設けて、新教徒や騒擾の責任者を捉えて処刑した。
1568年:アルバ侯が執政に就任
マルハレータは執政を辞任。新執政として全権を握ったアルバ侯は財産に対する新たな課税を導入し、ネーデルラントへの圧力を強めた。
1568年:エフモント伯、ホールネ伯らの処刑
オランイェ公と共に戦ったエグモント伯とホールネ伯が捕虜となり処刑された。 ドイツに逃がれたオランイェ公ウィレムの財産は欠席裁判で没収、長男は誘拐されスペインに人質にとられる。 アルバ侯による迫害の強化により、抗議行動は鎮圧された。

八十年戦争のはじまり

1568年:八十年戦争(ネーデルラントの反乱)が始まる
スペインに対するネーデルラントの反乱のはじまり。 1477年にブルゴーニュ女侯のマリーが認めた大特権にも反するアルバ侯の弾圧に対し、オランイェ公ウィレム1世らが抗議。 フェリペ2世に対し反旗をひるがえした。 (当時ウィレム自身の宗教はカトリックであるにもかかわらず。)
1570年11月1日:万聖節の大洪水(All Saints’ Flood)
Drawing by Hans Moser in 1570 of Scheldt flood / By Moser, Hans, Flugblatt: Hochwasser der Schelde in Antwerpen am 1.11.1570, 1570, Flugblatt, Nürnberg, Germanisches Nationalmuseum, Graphische Sammlung, HB 811, Public Domain, Link
長時間続いた大嵐が海水を押し上げ海岸の堤防を破壊。 大洪水となって大きな被害を与えた。 死者数万人、家・家畜・冬の蓄えも失う。ゼーラントのいくつかの小さな島は永久に失われた。(⇒Floods in the Netherlands
1572年4月:海乞食がスペイン兵の不在に乗じてブリーレを占領
アルバ侯による弾圧が続く中で、主にカルヴィニストの小貴族たちは海に出て「海乞食(Sea Beggars)」としてゲリラ戦に加わっていた。 イングランド女王エリザベス1世のからの後援が1572年に打ち切られる。 窮した「海乞食」がたまたま着いたブリーレでは、スペインの守備隊が出払っていたため、機に乗じて占領。 続いてフェーレとフリッシンゲンも手に入れる。
1572年:オラニエ公ウィレムが州の身分制会議で総督に任命される
ホラントとゼーラントの2州が自ら州身分制議会を開き、オランイェ公ウィレム1世を州総督に選ぶ。 「総督」という役職は本来「国王の権威の代表」。
1573年:アルバ侯の辞任
アルバ侯が試みた課税は都市参事会からだけでなく、これまで忠実であった国務評議会の構成員からも抵抗されアルバ侯が辞任する。 後任の執政レケセンスは反乱の原因と見られた新規課税と異端審問所を廃し、和平交渉を試みるが失敗する。
1573年10月:アルクマールの勝利
アルバ侯は反乱都市に軍隊を派遣して略奪を行わせて報復を図った。アルクマールを包囲するが、叛徒は堤防を切って町の周囲を浸水させる作戦に出てスペイン軍を撤退させた。
1574年:ライデンがスペイン軍の包囲から解放される
叛徒がライデンを押さえ、これを保持。
1575年:ライデン大学の開設が認められる
北ネーデルラントで最初の大学が設立される。プロテスタントの牧師の育成が目的。ホラントでは州身分制議会が「カトリック信仰を禁ずる」までに、情勢が変わった。
1576年:スペイン軍の狂乱でアントウェルペンが大打撃
スペイン軍の給料の遅配が原因で、軍の統制がとれなくなり、ネーデルラントの各地で略奪が行われた。 農村を略奪し、襲撃し、人々に暴虐を働いた。南部のアントウェルペンの被害が大きく、7000人以上が殺害され、住民の反スペイン感情は著しいものとなった。
1576年:ヘントの和約
アルバ侯の後任の執政レケセンスの突然の死を受けて、国務評議会が国政を司って全州身分制会議をヘントで開催。 ネーデルラント全州の合意のもと「スペイン軍の撤退と異端審問の中止」を要求し「全国身分制議会の自由開催(国王の同意を要しない)」を宣言。 国王側が折れてスペイン軍が一時撤退する。
(まもなくフェリペ2世の甥パルマ侯ファルネーゼがスペイン軍を率いて再上陸する。 執政にはオーストリアのドン・ファンが着任する。)
1579年:ネーデルラントの分裂、アラス同盟(南部諸州)とユトレヒト同盟(北部諸州)
3年前のヘントの和約では合意していたネーデルラントの全州が、ここで分裂。 南部でアラス同盟(ローマ・カトリック教会に対する忠誠)が結成され、これに呼応するかたちで北部でユトレヒト同盟(スペインに対する闘争を継続することを目的)が結成された。
(北部諸州の宗教問題は各州が自由に決める ⇒ ホラント州とゼーラント州は今後カルヴァン派のみを認めると決める。オランイェ公はためらいながら遅れてこれに参加。)
1580年:スペインとポルトガルが同君連合となる / オランダ商人の活動の拡大
スペイン国王フェリペ2世はポルトガル王位も継承(同君連合)し、ポルトガルへアジア産品の買い付けに来ていたオランダの商人を締め出した。 オランダの商人は自ら原産地まで行くことを検討し始め、海外における活動を拡大することになる。 アフリカとカリブ海の貿易にも参加し奴隷の取り扱いも始まる。
1581年:反乱(ユトレヒト同盟)州がスペイン国王廃位を宣言
北ネーデルラント7州の連邦議会が、フランス王の兄アンジュー侯への主権移譲(スペインに対してフランスの支持を取り付けたい狙いも?)に続いて、スペイン国王の廃位を宣言。 各州が州議会によって主権を握り、全州が集まって協議する場として連邦議会を設けた。
1584年7月10日:デルフトにてオラニエ公ウィレムの暗殺
デルフトの館(現在プリンセンホフ)にて階段を降りるウィレムが至近距離から撃たれて死亡する。 犯人はフランシュ・コンテ(当時スペイン領)生まれのカトリック信者 Balthasar Gérard 、 スペイン国王フェリペ2世の崇拝者で、ウィレムに懸賞金を掛けたと知った時から殺害を計画していた。
ナッサウ家の墓は当時スペインの占領下(ブラバントのブレダ)にあったため、ウィレム1世はデルフトの新教会に埋葬される。 以後のオランイェ公も代々ここに埋葬されている。
1585年:7州連邦がフランスとイングランドに主権の提供を申し出るがともに断られる
アンジュー侯が死去したため、主権移譲をフランス国王アンリ3世(1月)、続いてイギリス女王エリザベス1世(6月)に申し出るが、いずれも断られる。 エリザベス女王が総督としてレスター伯を送る(ノンサッチ条約)が、彼の高圧的な態度は歓迎されず2年滞在したのちに英国に戻る。
1585年:アントウェルペンが陥落
アントウェルペンは当時ネーデルラントで最大の貿易港。これがスペインの手に落ち、反乱側の砦につながるスヘルデ河は封鎖され、アントウェルペンの交易と工業が衰退する。
1585年:マウリッツ公がホラント、ゼーラント2州の総督に任命される
11月、州議会がウィレム1世の次男マウリッツ(18歳)をホラント州とゼーラント州の総督に任命する。 (長男のフィリップス・ウィレムはスペインに人質として取られていた)。 総督とは本来は国王の代理人の役職だが、国王不在の共和国でもこの仕組みを引き継いだ。 マウリッツはまもなく連邦議会によって立会軍最高司令官にも任命される。
(1588年:スペインの無敵艦隊が英国に敗れる)
1596年:英仏と三国同盟(Triple Alliance (1596))
英仏で結ばれていた同盟にネーデルラント7州連邦共和国が加盟。英仏が同連邦共和国を独立国として認めた意味も持つ。三国の共通の敵はスペイン。 (神聖ローマ帝国にも同盟に加わるよう説得を試みたこともあったらしいが同国はスペインとの戦争を避けたかったため成らなかった。)
1596年 頃:オランダの遠征隊がスピッツベルゲン島を発見 / 喜望峰回りで東南アジアに進出 
ある遠征隊がノヴァ・ゼンブラで座礁して現地で越冬することになったときスピッツベルゲン島を発見、以後オランダの捕鯨業の中心となる。 喜望峰回りでアジアに出向した遠征隊は成功をおさめ、これに続いてオランダに多くの貿易会社が設立される。 香料諸島に商館を設け収益性の高い貿易網を作る(これが植民事業に発展するのは19世紀)。
1598年:フェリペ3世即位
フェリペ2世の死去にともない2世の息子が3世として即位。 フェリペ2世は娘のイザベラがオーストリア大侯アルブレヒト(総督)と結婚する際に、ネーデルラント17州のうちスペイン国王に忠誠を示していた邦々をイザベラに贈った。
(1598年:ユグノー戦争の終結)
1562年:フランスでユグノー戦争はじまる⇒

宗教上の対立であるとともに、ブルボン家(プロテスタント)やギーズ家(カトリック)などフランス貴族間の党派争いでもあった。加えて、この戦争はカトリックのスペイン王フェリペ2世とプロテスタントのイングランド女王エリザベス1世との代理戦争の性格も有している。1589年にギーズ公アンリ、次いで国王アンリ3世が暗殺されてヴァロワ朝が断絶し、アンリ4世が即位してブルボン朝が興った。パリではカトリックの勢力が強く、プロテスタントの王を認めなかったため、アンリ4世はカトリックに改宗している。一方でナントの勅令(1598年)を発して、プロテスタントに一定の制限の下ではあるが信仰の自由を認め、戦争は終結した。 ユグノー戦争 | Wikipedia

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