ナイメーヘン(Nijmegen)[歴史散策]オランダの古代と中世の面影が遺る街

こんにちは。トオ子 です。

先日、オランダ東部・ヘルダーラント州の町ナイメーヘンへ行ってきました。ナイメーヘンはドイツとの国境近くに位置し、古代ローマ帝国の北端であり、中世には神聖ローマ皇帝がたびたび訪れた地です。第二次大戦では、あろうことか同盟連合軍(味方)の空爆を受けました。

ローマ時代の発掘品が展示されているというファルクホフ博物館[Museum het Valkhof | Nijmegen]を訪ねることが目的でしたが、町散策を機に古代~近代までの歴史を知ることができて、思い出深い日帰り旅行になりました。

思い出保存と情報共有を兼ねて旅行記を綴ります。

適宜、読み飛ばしてくださいね。

本編…汎用的な情報 | …歴史のこぼれ話 | …個人的な感想文 | …行き方や公式サイトの案内

概要

地図

旅した国と地域

国:オランダ
地方 / 州:ヘルダーラント州
市町村:ナイメーヘン(ネイメーヘン)

ナイメーヘン駅[Station Nijmegen]

モダンな設備が整った快適な駅です。現在のナイメーヘン駅は1954年に建てられたものを幾度か修繕・建直ししたものです。

駅構内
中心街へ向かう遊歩道

同盟連合軍による空爆

歴史:同盟連合軍による空爆

19世紀末(1894年)に建てられたネオ・ルネッサンス様式の駅舎は、第二次大戦中の1944年に空爆を受けて破壊されたそうです。この空爆ですが、当然、敵国のドイツによるものと思いきや、よく読むと同盟連合軍による空爆でした。えっ⁉

連合軍爆撃機の米パイロットは、第一および第二標的を攻撃できない場合には「機会」を見つけてその他の標的を攻撃するよう指示されていました。天候が悪化したために、ドイツの戦闘機工場などへの攻撃を予定通り行うことができなくなったパイロットは、その他の「機会」としてナイメーヘン駅周辺を選んだのです。

なぜ同盟国オランダのナイメーヘンが標的にされたのでしょう。理由としては、ナイメーヘンに続く線路がドイツの武器輸送に使われていたこと、戦闘機は未使用の爆弾を積んだまま着陸すると危険なこと、パイロットは25回の爆撃後に休暇を約束されていたこと、ドイツとオランダの国境を正しく認識していなかった可能性(?)…などが挙げられています…。

この空爆は第二次大戦中のオランダにおける最も規模の大きいもののひとつとなりました。800人以上の民間人が亡くなり、1000人以上が負傷したそうです。

オランダ政府はイギリスへ亡命中でアメリカの助けが必要だったため微妙な立場に置かれました。ナチスは誤爆を機に早速プロパガンダを行いました。アメリカはやや遅れて「国境から30㎞圏内への空爆は行わないこと」を決めました。詳しくは Wikipedia(en)に書かれています。

1930年のナイメーヘン駅周辺
現在のナイメーヘン駅

旅行インフォメーション

ナイメーヘン駅
Nijmegen

6512 AB Nijmegenhttps://goo.gl/map...j7d7MRjfs9
[公式]NSナイメーヘン駅の設備https://www.ns.nl/...m/nijmegen  

観光案内所[vvv Nijmegen]

ミニガイドブックはPDFなら無料

観光案内所では、無料のマップや有料のミニガイドブックを入手できます。ミニガイドブックは公式サイトでも配布されているのでダウンロードもできます。(無料・PDF形式・英語版あり)。

日記:PDFの情報のほうが新しかった

事前に英語版のPDFを見つけることができなかった私は、案内所で2.5€のミニガイドブックを購入しました。が、版が古かったようで、後で見つけたPDFのほうが情報が新しかったです^^;

旅行インフォメーション

ナイメーヘン観光案内所
VVV Nijmegen

Keizer Karelplein 32H, 6511 NH Nijmegenhttps://goo.gl/map...oUthA61Us9
公式ウェブサイトhttps://en.visitnijmegen.com/  

クローネンバーガ公園[Kronenburgerpark]/ 弾薬の塔[Kruittoren]

公園内で見れる飼育小鳥と野鳥

クローネンバーガ 公園内には、小鳥のケージが設置されていました。池には野鳥も来ます。

市壁の名残り

クローネンバーガ公園では市壁の名残りや保存された塔[Kruittoren]を見ることができます。塔の中に「おばあちゃんのキッチン」なる博物館があるようです。

噴水
市壁の名残り

歴史:市壁は1874年に取り壊しが決定

13世紀から建設され始めた市壁は、15世紀の大砲到来の時代を生き延び、おそらくは拡張さえされて、19世紀まで保たれました。しかし要塞法なるものの見直しと人口増加によって1874年に取り壊しが決定したとのことです。市壁の大部分が取り壊されるなか、弾薬の塔[Kruittoren]とその周辺は遺されることになりました。

塔の周囲は公園となり、併せて運河も改修され、優雅な曲線を描く池が塔のふもとに配されました。1885年に撮られた写真がとてもきれいです。100年以上を経た現在は、この写真よりも木が生い茂っている印象です。

※大砲の登場によって城壁は簡単に破壊され得るものとなり、取り壊されることが多かった。

おばあちゃんのキッチン

日記:カフェなの?博物館なの?

塔の北側で「Coffie en Thee」と書かれた看板を見かけました。カフェだと思っていましたが、どうやら塔の中が"おばあちゃんのキッチン"[Grootmoeders Keukenmuseum]という博物館になっているようです。金曜と週末だけオープンしており、入塔料は2€(現金のみ)です。

入らなかったのでわかりませんが、カフェも併設されているのかもしれません。あとで ウェブサイト を見ると「ペイストリーと珈琲 / 紅茶 をいただきながら、アンティークなティーカップやビスケットの缶を楽しむ」みたいなことが書かれており、今さら気になっています。

旅行インフォメーション

公園&弾薬の塔
Kruittoren

Parkweg 11, 6511 BE Nijmegenhttps://goo.gl/map...QfHUj3b4U8
観光局https://www.visitn...rgerpark-1
おばあちゃんのキッチンhttps://grootmoede...press.com/  

オランダ最古のショッピングストリート[Lange Hezelstraat]

19世紀のファサードが多い

この通りには15世紀・16世紀・17世紀に建てられた建物もありますが、ファサードについては19世紀のものが多く見られます。第二次大戦中のナイメーヘン空襲においてヘーゼル通り[Hezelstraat]は、奇跡的に破壊をまぬがれ、今日まで遺ることができました。

ヘーゼル通り[Hezelstraat]とは、「Hees村へ続く道」という意味があるそうで14世紀にはすでにこの名前で呼ばれていたそうです。Hees村はかつて、現在のNieuw-West districtに存在した村です。

日記:「ショッピングストリート」の定義

ここはオランダ最古のショッピングストリートです…と聞いて、その歴史は例えばローマ時代の"交易の道"の類まで遡るのかと思ったのですが、どうやらそういう意味ではなかったようで。

言葉の定義として、店舗が並んでいる通りショッピングストリートと呼ぶそうで、そうした販売スタイルが主流になるのは19世後半に入ってからという、そもそもがわりと近世の話なのでした。

最初の店舗がオープンしたのは1880年

歴史:ショッピングストリートとしての歴史

ヘーゼル通り[Hezelstraat]に最初の店舗がオープンしたのは1880年で、ここからショッピングストリートとしての歴史が始まります。

この通りはNieuwe Hezelpoortの市門から始まっており、フローテマルクト[Grote Markt]まで伸びています。

中世からフローテマルクトは市の経済の中心地でしたので、必然的にヘーゼル通りには多くの商人が住むようになり、また市門の近くには旅籠(居酒屋)が軒を連ねていたそうです。

こうした名残で今日でもこの辺りにはレストランが多く、また、初の店舗がオープンする以前から軒先で物を売る習慣もあったようです。

旅行インフォメーション

オランダ最古のショッピングストリート
Lange Hezelstraat

Lange Hezelstraathttps://goo.gl/map...X5JyfwjKb6
公式ウェブサイトhttps://hezelstraa...jmegen.nl/  

聖ステーフェン教会[Stevenskerk]

聖ステーフェン教会の見どころ

聖ステーフェン教会の見どころは大オルガン、塔に登るツアー、そして質素な内装と教会修復に関わる展示かと思います。塔に登るツアーは開催時間に変更が生じることがあるので、公式サイトでスケジュールも要チェックです。

日記:4次元(時空)を感じて

教会は装飾の多い外観に比べて内部はあっさりしています。そもそもプロテスタントの教会は装飾が控えめではあるのだけれど、それにしても非常に簡素な印象だったのでちょっと驚いていたのですが、 「17世紀オランダ絵画さながらの無機質な感じ」とコメントされている金獅子亭 別館 旅行記を見つけて、にわかに4次元(時空)を感じてテンションが上がった自分がおりました。

私が訪れた日は、Gerry Dobbelaer さんの絵画展が開催されていて、16時からはコンサートが予定されていました。遅い時間に行ったので塔に登るツアーの受付が終了していたのは残念です。

私は、たまたまコンサートが始まる時間に居合わせたので素敵な歌声を聞きながら見学できました。ただ、無料のコンサートだと思っていたら、なにやら別途有料(€15)の3時間に及ぶコンサートだったようです(!)

にも拘わらず教会を見学できる時間と30分ほど重なっていたようで、私を含め観光客が出入りしていました…。受付でも何も言われなかったので不思議です。

プロテスタント教会になったりカトリック教会に戻されたり

歴史:プロテスタント教会になったりカトリック教会に戻されたり

この教会の建設は13世紀後半にケルン大司教によって始められたとのことです。じつはこれ以前に、ファルクホフ城近くに同教会が建っていました。これが城壁の建設に伴って現在の場所に建て直されることになったようです。Construction phases from 1254 to 1969の図に拠れば、下地と、現在見られる建物の中央西端の部分が最も古く1254年~1310年頃のものとなっています。

教会は14世紀・15世紀・16世紀前半を通じて拡張されますが、1566年以降は建設が中断されます。この時期はちょうどヨーロッパで革新運動[宗教改革]が広まりローマ・カトリック教会からプロテスタント各派が分離・発展した頃です。

ナイメーヘンでは、プロテスタントがカトリックを抑圧するほど勢いを増しました。このためスペイン国王(カトリック派)から目の敵とされ幾度も包囲されます。当時のオランダはハプスブルク家スペイン王国の支配下にあり、反乱を起こして八十年戦争51に突入していました。

こうした背景があって、教会は未完成のまま、プロテスタント教会になったりカトリック教会に戻されたりしました。

このような状況のナイメーヘンをオランダの総督マウリッツ(プロテスタント派)が1591年に奪還します。これを機に聖ステーフェン教会は決定的にプロテスタント教会に変わりました。

さて、八十年戦争が終わって独立したオランダに、今度はフランスのルイ14世が侵攻してきました。1672年から1674年にかけて、ナイメーヘンはフランス軍に占領されます。このとき教会は一時的に、ふたたびカトリック教会として使用されました。

1810年以降、教会はナイメーヘン改革派教会の所有となり、塔については自治体が保有して、現在に至るそうです。教会と塔は所有者が違うんですね。

1944年2月の空襲によって塔の上部が倒壊し教会は大きなダメージを受けました。修復作業は1948年から1969年にかけて行われました。

*51 現オランダに相当する地域は16世紀からハプスブルグ家スペイン王国の支配下に置かれたが、新教徒弾圧や経済的利益の上前を撥ねられることなどへの不満から、大小の領主や都市民がスペインに対して反乱を起こした戦争。途中12年の休戦を挟んで80年続き、結果的にオランダ共和国の独立につながった。

旅行インフォメーション

聖ステーフェン教会
Stevenskerk

Sint Stevenskerkhof 62, 6511 VZ Nijmegenhttps://goo.gl/map...MQLc1zCu69
公式ウェブサイトhttps://www.stevenskerk.nl/  

ラテン語学校[Latijnse School]

初期ルネサンス様式(カトリックらしい装飾)

1564年にケルン大司教によって設立された、かつてのラテン語学校※61です。初期ルネサンス様式で建てられています。1842年からはギムナジウムとして使われました。ギムナジウムは19世紀ころからラテン語学校に代わって広まった学校です。

ラテン語学校の権限は開校後まもなく市に移り、また1591年(総督マウリッツによるナイメーヘン奪還の年)以降はプロテスタント勢によって管理されることになりますが、建設当初のカトリックらしい装飾が今も見てとれるとのことです。

たとえば、窓と窓の間に配置された[Ten Commandments]のテキストもそのひとつ…とミニガイドブックに書かれています。アルクの英辞郎さんに訳してもらうと Ten Commandments とは[十戒]10の神聖な掟、とのことです。

日記:知識不足で味わいきれない

窓と窓の間…というと、聖人のようなオジサマ像が並んでいるのが目立ちますが、テキストがどこにあるのか私は見つけられませんでした。12体並ぶこの像は、十二使途だそうです。それぞれの使途の頭上をまっすぐ見上げると、ガイコツと骨の彫刻も見られます。入り口の上部にあるのは4人の教父[four church fathers]像だそうです。

…キリスト教の登場人物を知っていないと味わいきれない感が…😅。まったくもって何も知らないので(あるいは忘れてるので)、また折をみて概観をつかんでおこうと思います。

旅行インフォメーション

ラテン語学校
Latijnse School

Sint Stevenskerkhof 2, 6511 VZ Nijmegenhttps://goo.gl/map...TLBBZfviH6
観光局https://www.visitn...nse-school  

1944広場[Plein1944]

1944広場[Plein1944]は、戦後の街の再建計画によって1950-1955年に造られました。名称は、第二次大戦中の米軍によるナイメーヘン誤爆およびナチスからの解放のに由来します。

1953年に撮られた写真では、広場の中央にジャックマリス戦争記念碑[Oorlogsmonument van Jac Maris]が見えますが、移設されたのか、広場の様子が変わったのか、現在は広場の西側の建物の近くで見ることができます。

ちなみに、広場の名称の候補は他に"ヘンドリック(7世)広場 [Koning Hendrikplein]" というものも挙がったそうです。ヘンドリック(7世)は、1230年にナイメーヘンを都市として認め、都市特権を与えたドイツ王(1220–1235)です。

日記:昼食

お昼時だったので私はサンドイッチショップで昼食をとりました。

近くでお昼ごはん
隣の広場

旅行インフォメーション

1944広場
Plein1944

6511 JA Nijmegenhttps://goo.gl/map...bznPtYp8R8   

ナイメーヘン歴史館[Huis van de Nijmeegse Geschiedenis]

ナイメーヘン歴史館[Huis van de Nijmeegse Geschiedenis]という施設が、おそらく…あの教会に併設されています。普通の教会だと思って素通りしてしまい、入っていないので詳細はわかりません。

公式サイトによれば、常設展と期間別の展示があり、質問に答えてくれる人がいるそうです。ナイメーヘンの略史について50のトピックスに分けて紹介しているページを見つけました(英/仏/独/伊)!🐣

旅行インフォメーション

ナイメーヘン歴史館
Huis van de Nijmeegse Geschiedenis

Mariënburg 26, 6511 PS Nijmegenhttps://goo.gl/map...Gu5wFLZLp7
公式ウェブサイトhttps://www.huisva...edenis.nl/  

マリケン通り[Marikenstraat]

マリケン通りはナイメーヘンで最も新しいショッピングストリートです。2階通路もあってショッピングモールのようです。屋根がないぶん解放感があります。

旅行インフォメーション

マリケン通り
Marikenstraat

Marikenstraathttps://goo.gl/map...Q2RUJPeYY9
公式ウェブサイトhttps://www.marikenstraat.nl/  

旧トラム駅のキヨスク・カフェ[Kiosk Hunnerpark]

フンネル公園[Hunnerpark]の南の入り口にあるのは、1911年築のトラムの衛兵所(係員の詰所?)です。現在はカフェ(スナックバー)として運営されています。

ナイメーヘンでは1910年から複数の会社によって蒸気トラムが運行されており、ちょっとした名物になっていたとのこと。それは[Beek]経由で[Berg en Dal]へ向かう2番系統が、高低差80メートルの “山道” を走ったからだそうです。

トラム線が閉鎖されると、衛兵所は少し公園内寄りに移築されてキヨスクに変わりました。

隣接する公園
隣接する公園

旅行インフォメーション

旧トラム駅のキヨスク・カフェ
Kiosk Hunnerpark

Sint Jorisstraat 35, 6511 TC Nijmegenhttps://goo.gl/map...NVGviJ7c27
TripAdvisorhttps://www.tripad...vince.html  

ベルヴェデーレ塔[Belvédère]

ベルヴェデーレ塔は現在イベント会場(予約制のレストラン)になっているため、ご縁がないと屋上に登れませんが、塔の入り口付近のバルコニーは誰でも立ち入ることができます。ここから見下ろすフンネル公園のガーデンとワール川に架かる橋の眺めはじゅうぶん素敵です。

歴史:「良い眺めだ」

1585年にナイメーヘンを訪れたパルマ公*がイタリア語で「良い眺めだ(Bel vedere !)」と言ったことから、この名がついたというベルヴェデーレ塔。もとは見張りの塔で、15世紀後半の新たな市壁の建設に伴って建てられました。フンネル公園内で見られる市壁の一部は、このとき建てられた市壁だそうです。

塔は17世紀半ばにルネサンス様式で増改築された際に、屋上の手すりと、入り口に見られる市の紋章が取り付けられました。この頃には、見張りの塔としての役目は失い、娯楽施設として、また高位の客を迎える宴会場として利用されたそうです。

19世紀の終わりころ、損傷が激しかったため大修復が行われ、入り口にある市の紋章もリニューアルされました。

*おそらく第二代パルマ公オッターヴィオ・ファルネーゼ?

旅行インフォメーション

ベルヴェデーレ塔
Belvédère

Kelfkensbos 60, 6511 TB Nijmegenhttps://goo.gl/map...kZbJYCxA68
公式ウェブサイトhttps://www.belved...jmegen.nl/  

ファルクホフ博物館[Museum het Valkhof | Nijmegen]

ローマ時代の発掘品

広場西にある淡い水色のモダンな建物がファルクホフ博物館[Museum het Valkhof | Nijmegen]です。

イタリアのローマを中心に栄えた古代ローマ帝国は、オランダまで及んでいました。なので、地面を掘り起こすと、出るのです…!遺跡や貨幣や道具の数々が。というわけで、ナイメーヘンとヘルダーラント州からの発掘品が丁寧に展示されているのが、この博物館です。

図説でもよく見かける[青銅と金銀メッキ製の兜マスク]がここにあります。(…が、特別目立つような展示はしていないので、他のものに気を取られていると見落としそうです。)

ローマ軍の兵士が使っていたとされるこの兜マスクは1世紀後半のもので、発見されたのは20世紀初頭、場所はワール川に架かる鉄道の橋から遠くない地点だったそうです。

良く見ると額上部にヒンジがついています。上向きにマスクを上げて、顔を出すことができました。

ローマ時代の発掘品はこのほか、BC1世紀~AD1世紀頃のゴブレット(器)、AD15年頃の柱の一部、AD100頃のトラヤヌス帝の頭部ブロンズ像などを見ることができます。受付で英語のガイド板(?)を借りて、これらの解説を読むことができます。ガイド板…と書きましたが、ラミネート加工されたA4サイズの紙が綴られたものです。

石器時代・中世~近世・近代の品々も

実はローマ時代の品だけでなく石器時代・中世~近世・近代のものも展示されている上に、モダンアート展も併設されているので、1~2時間でかなり幅広く楽しめる博物館です。

細かく小さな出土品も丁寧に陳列されています。基本的に説明文はオランダ語のみですが、図解や模型もあるのでそれなりに楽しめます。

中世以降の展示品では、絵画が印象的でした。17世紀のファルクホフ城、城塞マップ、ネイメーヘン条約を描いたもの、ひとつの額に25コマの風景画が描かれた作品、印象派タッチで描かれたフローテマルクトの様子などがありました。

旅行インフォメーション

ファルクホフ博物館
Museum het Valkhof

Museum Het Valkhof, Kelfkensbos 59, 6511 TB Nijmegenhttps://goo.gl/map...5XaSnxY1n6
公式ウェブサイトhttps://www.museum...alkhof.nl/  

ファルクホフ公園(城の跡地)[Valkhofpark]

ナイメーヘン歴史散策のハイライト

ファルクホフ公園とその周辺はナイメーヘン歴史散策のハイライトです。

城は解体されて公園になっていますが、聖ニコラウス礼拝堂バルバロッサ遺跡が遺されていて、ここにローマ時代の建材を含んでいます。

この場所は、かつてローマ人が要塞を築き、中世には立派な城が建ち、歴史的に主要な地域となった時期があったことを知ると味わいが深くなります。

なお、城が解体されたのは18世紀末です。オランダで愛国者運動*が盛んになり、それまでのオランダ共和国に取って代わってバターフ共和国*が成立した頃のことでした。

ナイメーヘンとファルクホフ城の略史

歴史:ナイメーヘンとファルクホフ城の略史

平らなオランダでは珍しく、この公園は丘の上にあります。

先史~古代

  • 新石器時代:新石器時代から人の定住痕
  • 前100年頃:ローマの記録によればバターフ(西ゲルマン)人がこの丘を中心に定住
  • 前15-12年頃:ローマ軍のキャンプが建てられる
  • 後69-70年頃:ローマに対するバターフ人の反乱
  • バターフ人の記録が途絶え歴史から姿を消す(近世に入ってから建国された「バターフ共和国」のとは実質的な繋がりはない)
  • 後103年:ナイメーヘンに駐屯していたローマ第10軍団ゲミナがビンドボナ(現オーストリアのウィーン)へ移る
  • 後103年~:ナイメーヘンの人口と経済が下降

中世

  • 400年頃~:ローマ軍が撤退とゲルマン人の流入
  • ナイメーヘンがフランク王国の一部
  • 丘にが建てられる(かのカール大帝も滞在)
  • ナイメーヘンが神聖ローマ帝国に併合される
  • 880-881:ファルクホフ城をバイキングが占領
  • 10世紀:神聖ローマ皇帝オットー2世(955-983)の妃テオファヌ(960-991)がファルクホフ城に居住
  • 11世紀:城内に聖ニコラウス礼拝堂が初めて建立
  • 1047年:ゴットフリート3世(c997-1069)の乱*で城が焼討
  • 1155年:神聖ローマ皇帝フレデリック1世(赤髭王 / バルバロッサ)が再建(現在見られるバルバロッサ遺跡は、このときに建てられた礼拝堂)
  • ナイメーヘンがヘルレ伯領に
  • 13世紀:ヘルレ伯がファルクホフ城を拡張

近世

  • 1648年:オランダ共和国が成立
  • 18世紀:オランイェ公ウィレム5世(1748-1806)が国内を転々と逃げ回っている途中でファルクホフ城にも滞在
  • 1787年:プロイセン王国が秩序の回復を口実に介入し、軍隊はファルクホフ城1泊してホラントへ
  • 1795年:バターフ共和国(1795-1806)*が樹立
  • 1797年:ファルクホフ城の解体

解体に際して、アマチュアの歴史家が「ローマ時代の遺跡を含んでいる」として州議会と市議会を説得したおかげで、聖ニコラウス礼拝堂バルバロッサ遺跡だけは保存されることになりました。このため両礼拝堂はローマ時代に起源をもつものと、長らく信じられていました。

解体された城の残骸は建築材料として各地へ売られ、跡地は英国風の公園になりました。

旅行インフォメーション

ファルクホフ公園(城の跡地)
Valkhofpark

Kelfkensbos 59, 6511 TB Nijmegenhttps://goo.gl/map...JZpXQKoiZ9
公式ウェブサイトフォルクホフ協会https://www.valkho...lkhofpark/  

バルバロッサ遺跡[Barbarossa-ruïne / Sint-Maartenskapel]

赤髭王 / バルバロッサが再建

1047年に焼討にあって荒廃した城を、1155年に神聖ローマ皇帝フレデリック1世(赤髭王 / バルバロッサ)が再建し、城壁も建設しました。現在見られるバルバロッサ遺跡は、このときに建てられた城の一部です。

現在残っている部分は礼拝堂の後陣と考えられ、天井のアーチがローマ時代の柱(ピラー)で支えられています。柱はカララ大理石製で、柱頭がカロリング朝スタイルだそうです。地下および2階もあったようなことが書かれています。

実際のところ、この建物が本当に礼拝堂として機能していたのか、あるいはもともとは玉座の置かれていた場所なのかなど断定はできないのだそうです。

この遺跡は、建設された年代よりも古い石材を含んでいます。聖ニコラウス礼拝堂で配布されているリーフレット(€0.50)によれば、おそらくは近隣に横たわっていたローマ時代の遺跡を建築材料として使ったためだろうとのことです。

旅行インフォメーション

バルバロッサ遺跡
Barbarossa-ruïne

Benedenstad, 6511 TB Nijmegenhttps://goo.gl/map...ZcAvSMFwg8
観光局https://www.visitn...rossaruine  

聖ニコラウス礼拝堂[Sint-Nicolaaskapel]

ロマネスク様式+ゴシック様式

この礼拝堂は1030年頃にロマネスク様式で建てられ、1047年に起こった城の焼き討ちでもかろうじて遺り、1400年頃にゴシック様式で手が加えられたそうです。

聖ニコラウスは主にビザンツ帝国で崇拝されていた聖人です。礼拝堂の中にあるリーフレット(€0.50)によれば、ビザンツ帝国から神聖ローマ皇帝オットー2世に嫁いだテオファヌ(960-991)によってもたらされた信仰だと考えられるそうです。この聖人こそ サンタクロース / シンタクラース の原型の聖ニコラウスです。

1570年に天井にフレスコ画が描かれました。この年、スペイン国王フェリペ2世の4番目の妃として嫁ぐアンナ・フォン・エスターライヒが、オーストリアからスペインまでの道中でナイメーヘンに立ち寄ったそうです。

礼拝堂の内部には、在りし日の城の模型があります。

旅行インフォメーション

聖ニコラウス礼拝堂
Sint-Nicolaaskapel

Voerweg 1, 6511 RT Nijmegenhttps://goo.gl/map...eCzx4b52H9
公式ウェブサイトフォルクホフ協会https://www.valkho.../bezoeken/  

ローマ時代の床暖[Hypocaustum]

ミニガイドブックが、さりげなくこの「ローマ時代の床暖」に言及していたので、探しました。オランダカジノ[Holland Casino Nijmegen]の建物北面、おとなりのレストランとの境に近い西端の窓を覗き込むと、見ることができます。

古代ローマの床下暖房は[ハイポコースト]と呼ばれ「下から熱する」という意味を持つそうです。床を持ち上げて床下に空間を作り、炉からの熱気と煙を送り込んで屋根付近の送管から排気するという、セントラルヒーティングシステムでした。この構造は、ローマ浴場のカルダリウムの写真を見るとわかりやすいです。

日記:見つけにくいです

中が見えにくいタイプのガラス窓なので、見つけるのに苦労しました💀

ローマ時代の床暖設備の一部…と言われてみないと、いつの時代の何なのか、私にはさっぱりわからない石造りの床の一部がそこにありました。苦労して見つけたわりに、「見た!」以外の感動の仕方がわからない己の悲しさよ…。ところが!ローマ時代の床暖について調べてみると意味がわかるようになって(上述)、撮影した写真を改めて見たときに感動しました。

旅行インフォメーション

ローマ時代の床暖
Hypocaustum

Waalkade 68, 6511 XP Nijmegenレストラン入口脇の窓から見れるhttps://goo.gl/map...TMF3WdA9a6  

通行料徴収人の家[Besiendershuis]

besienderさんにちなんで

この建物の名称[Besiendershuis]は、ワール川を往来する船から通行料を徴収するのが仕事だった besienderさんにちなんでいるのだそう。

ステーン通り[Steenstraat]に建つこの家の建築時期は16世紀、1525年頃とされています。後期ゴシック様式の中でも特にライン川下流域で見られる様式だそうです。この家は国定史跡に指定されています。

16世紀当時のステーン通りには、この建物からイメージできるようなエレガントさはなく、むさ苦しい下宿や貸間・パブ・売春宿などがひしめいて騒がしかったと、ミニガイドブックには書かれています。

なので史劇系の映画で見られる下町のそういう一角の情景を思い浮かべながら通りを歩いてみるのも一興かもしれません。

旅行インフォメーション

通行料徴収人の家
Besiendershuis

Steenstraat 26-28, 6511 TV Nijmegenhttps://goo.gl/map...W8qHTYD2b8
観光局https://www.visitn...endershuis  

フローテ・マルクト[Grote Markt]

交易の中心地

ワール川に面したナイメーヘンは交易が盛んでした。この大きめの広場は、かつての交易の中心地(市場)のひとつです。広場の北面に計量所[Boterwaag / De Waagh]、西面に布の会場[Laeckenhal]、中央にマリケン像[Mariken van Nieumeghen]を見ることが出来ます。

計量所[Boterwaag / De Waagh]

現在みられる計量所は1612年築のルネサンス様式で、14世紀末に建てられたミートハウス(食肉屋)を建て直したものだそうです。商人は、ズルをしないよう計量所で商品の重さを計って公正に取引することを義務付けられていました。

建物内の右側(西側)に計量機器があり計量が行われ、左側(東側)地下では食肉が取り扱われ、搬入と搬出をふまえて建物の正面と背面には大きなドアが設けられました。

中世において、食肉を扱う場所は衛生的ではなく、夏にはそれなりの匂いを発したようです。売れ残りの肉は2日後に、よそへ移さなくてはなりませんでした。このような肉は市門の外で安く売られたそうです。

建物の上階は、市の衛兵や駐屯兵が利用することを意図して作られ、市を見渡すことができたようです。[Achter de Hoofdwacht]というのは、どうやらオランダ語で「衛兵の背後」という意味のようで、建物の東側の通りの名になっています。

布の会場[Laeckenhal]

広場の西側にあり、1階部分がトンネル状(ピロティ構造?)になっていて聖ステーフェン教会まで通り抜けできる建物が、それです(たぶん)。

14世紀末に建てられ、その幅約54メートル…ということで、おそらく右に連なる建物も含んでいたのかな?と思います。ミニガイドブックによるとファサードにいくつかの柱が見られる…らしいのですが、この柱を見つけることが出来ませんでした。

当時はたいていの衣類はウール(羊毛)を紡いで作られていたので、「布」は高級品でした。このため織物生産業には専門職人が従事し、ナイメーヘンには布組合[布ギルド]も存在したそうです。布の会場では、布商品の取引が行われたり、ギルドの会合が開かれたそうです。

マリケンの像[Mariken van Nieumeghen]

マリケンは架空の物語の主人公の女性です。16世紀初頭にアントワープで書かれた物語だそうですが、その舞台が15世紀のナイメーヘンなのだそうです。

マリケンは、とある村から買い物のためにナイメーヘンに赴いた日に叔母の家で宿泊を拒まれて、街を彷徨っていたら悪魔に声をかけられました。

マリケンは悪魔と7年暮らし、その罪に気づいた日から悔い改めて、叔父の助けを得て悪魔のもとを離れ、その罪を許されるためにケルン大司教とローマ教皇を訪ねて旅をし、最後にマーストリヒトの修道院に入って罪を許されたのち、2年後に息を引き取るのだそうです。

この「悪魔」のほうも、聖ステーフェン教会前の階段に像が建てられています。

マリケン像
悪魔象

旅行インフォメーション

フローテ・マルクト
Grote Markt

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本日の行程

2019年10月土曜日 天気☀

時刻内容
08:54 - 10:17アムステルダム駅
[鉄道]NS intercity
ナイメーヘン駅
[散策]
12:30 - 13:00[昼食]サンドイッチ
[散策]
20:13 - 21:35ナイメーヘン駅
[鉄道]NS intercity
アムステルダム駅