
ナイメーヘン – Nijmegen –
歴史散策
先日、オランダ東部・ヘルダーラント州の町ナイメーヘンへ行ってきました。ドイツ国境に近く、古代ローマ帝国の北端に位置し、中世には神聖ローマ皇帝がたびたび訪れた街です。第二次大戦では、あろうことか同盟連合軍の空爆を受けていました(!)
一番の目的は、ローマ時代の発掘品が展示されているファルクホフ博物館[Museum het Valkhof | Nijmegen]を訪れることだったけど、町散策を機に古代~近代までの歴史を知ることができて思い出深い日帰り旅行になりました。
現地滞在8時間。19のスポットの場所や略史の他、新たに知ったこと・気になって調べたこと・感じたことを書き残しておきます。(勢い余って観光マップも作ってみました。)
もくじ
-
ナイメーヘン観光
- 1.☆ナイメーヘン駅[Station Nijmegen]
- 2.観光案内所[vvv Nijmegen]
- 3.★クローネンバーガ公園[Kronenburgerpark]/ 弾薬の塔[Kruittoren]
- 4.オランダ最古のショッピングストリート[Lange Hezelstraat]
- 5.★聖ステーフェン教会[Stevenskerk]
- 6.ラテン語学校[LATIJNSE SCHOOL]
- 7.1944広場[Plein1944]
- 8.ナイメーヘン歴史館[Huis van de Nijmeegse Geschiedenis]
- 9.マリケン通り[Marikenstraat]
- 10.旧トラム駅のキヨスク・カフェ[Kiosk Hunnerpark]
- 11.★ベルヴェデーレ塔[Belvédère]
- 12.★ファルクホフ博物館[Museum het Valkhof | Nijmegen]
- 13.★ファルクホフ公園(城の跡地)[Valkhofpark]
- 14.★バルバロッサ遺跡[Barbarossa-ruïne / Sint-Maartenskapel]
- 15.★聖ニコラウス礼拝堂[Sint-Nicolaaskapel]
- 16.砦博物館[De Bastei]
- 17.ローマ時代の床暖[Hypocaustum]
- 18.通行料徴収人の家[Besiendershuis]
- 19.★フローテ・マルクト[Grote Markt]
- 観光マップと年表
- 関連情報と参考資料
ナイメーヘン観光
1.☆ナイメーヘン駅[Station Nijmegen]

駅の外観を撮り忘れてWikipediaより拝借。Wikipedia(NL)に拠れば、現在のナイメーヘン駅は1954年に建てられたものを幾度か修繕・建直ししたものだそうです。
19世紀末(1894年)に建てられたネオ・ルネッサンス様式の駅舎は、第二次大戦中の1944年に空爆を受けて破壊されたそうです。この空爆ですが、当然、敵国のドイツによるものと思いきや、よく読むと同盟連合軍による空爆でした。えっ⁉
連合軍爆撃機の米パイロットは、第一および第二標的を攻撃できない場合には「機会」を見つけてその他の標的を攻撃するよう指示されていました。天候が悪化したために、ドイツの戦闘機工場などへの攻撃を予定通り行うことができなくなったパイロットは、その他の「機会」としてナイメーヘン駅周辺を選んだのです。
なぜ同盟国オランダのナイメーヘンが標的にされたのでしょう。理由としては、ナイメーヘンに続く線路がドイツの武器輸送に使われていたこと、戦闘機は未使用の爆弾を積んだまま着陸すると危険なこと、パイロットは25回の爆撃後に休暇を約束されていたこと、ドイツとオランダの国境を正しく認識していなかった可能性(?)…などが挙げられています…。
この空爆は第二次大戦中のオランダにおける最も規模の大きいもののひとつとなりました。800人以上の民間人が亡くなり、1000人以上が負傷したそうです。
オランダ政府はイギリスへ亡命中でアメリカの助けが必要だったため微妙な立場に置かれました。ナチスは誤爆を機に早速プロパガンダを行いました。アメリカはやや遅れて「国境から30㎞圏内への空爆は行わないこと」を決めました。詳しくは Wikipedia(en)に書かれています。
ところでナイメーヘンに初めて駅が建設されたのは1865年8月で、場所は現在の駅より少し東のKeizer Karelpleinにあり、線路はオランダ国内ではなくドイツのクレーヴェ[Kleve]に繋がっていたそうです。オランダ国内の線路と繋がったのは1879年で、この時に駅は現在の場所に移されたとのことです。
ナチスからの解放75周年にあたる今年は各地でイベントも多く、この日はナイメーヘンの上空を…せ、戦闘機(!?)が飛んでいました。第二次大戦で使用された機種が飛んでるのかと思ってビックリした私。軍事ファンの友達に写真を見てもらうと「オランダ空軍の “現行の輸送機” じゃないかな?」と。あっ🐣
2.観光案内所[vvv Nijmegen]

- OPEN火 – 金 09:30 – 17:30 / 土 10:00 – 16:00
- CLOSE日・月
- ガイド冊子(英/蘭/独) 2.5€
- 所在Keizer Karelplein 32H, 6511 NH Nijmegen
- WEBVVV Tourist Information Office Rijk van Nijmegen
観光案内所では、無料のマップや有料のミニガイドブックを入手できます。ミニガイドブックは公式サイトでも配布されているのでダウンロードもできます。(無料・PDF形式・英語版あり)。
事前に英語版のPDFを見つけることができなかった私は、案内所で2.5€のミニガイドブックを購入しました。が、版が古かったようで、後で見つけたPDFのほうが情報が新しかったです^^;
ミニガイドブックのダウンロードは下記のリンクから。CITY GUIDE (INCLUDING CITY MAP) の項にダウンロード用リンクがあります。
ところで、この旅行記ではミニガイドブックと少し異なるコースを巡っています。博物館の開館時間と見学時間の都合です。博物館に立ち寄らない場合は、ミニガイドブックのコース通りに行くのが効率的かと思います。
3.★クローネンバーガ公園[Kronenburgerpark]/ 弾薬の塔[Kruittoren]

- 公園
- OPEN毎日 終日
- 所在Kronenburgerplaats 6511, 6511 AW Nijmegen
- 弾薬の塔 / 博物館
- OPEN金 – 日 10:00 – 17:00
- 所在Parkweg 11, 6511 BE Nijmegen
- WEBGrootmoeders Keukenmuseum
ここでは市壁の名残りや保存された塔[Kruittoren]を見ることができます。塔の中に「おばあちゃんのキッチン」なる博物館があるようです。
13世紀から建設され始めた市壁は、15世紀の大砲到来*31の時代を生き延び、おそらくは拡張さえされて、19世紀まで保たれました。しかし要塞法なるものの見直しと人口増加によって1874年に取り壊しが決定したとのことです。市壁の大部分が取り壊されるなか、弾薬の塔[Kruittoren]とその周辺は遺されることになりました。
塔の周囲は公園となり、併せて運河も改修され、優雅な曲線を描く池が塔のふもとに配されました。1885年に撮られた写真がとてもきれいです。100年以上を経た現在は、この写真よりも木が生い茂っている印象です。
塔の北側で「Coffie en Thee」と書かれた看板を見かけました。カフェだと思っていましたが、どうやら塔の中が"おばあちゃんのキッチン"[Grootmoeders Keukenmuseum]という博物館になっているようです。金曜と週末だけオープンしており、入塔料は2€(現金のみ)です。
入らなかったのでわかりませんが、カフェも併設されているのかもしれません。ウェブサイトを見ると「ペイストリーと珈琲 / 紅茶 をいただきながら、アンティークなティーカップやビスケットの缶を楽しむ」みたいなことが書かれており、今さら気になっている私です。
*31 大砲の登場によって城壁は簡単に破壊され得るものとなり、取り壊されることが多かった。
4.オランダ最古のショッピングストリート[Lange Hezelstraat]

ここはオランダ最古のショッピングストリートです…と聞いて、その歴史は例えばローマ時代の"交易の道"の類まで遡るのかと思ったのですが、どうやらそういう意味ではなかったようで。
言葉の定義として、店舗が並んでいる通りをショッピングストリートと呼ぶそうで、そうした販売スタイルが主流になるのは19世後半に入ってからという、そもそもがわりと近世の話なのでした。
ヘーゼル通り[Hezelstraat]に最初の店舗がオープンしたのは1880年で、ここからショッピングストリートとしての歴史が始まります。
この通りはNieuwe Hezelpoortの市門から始まっており、フローテマルクト[Grote Markt]まで伸びています。
中世からフローテマルクトは市の経済の中心地でしたので、必然的にヘーゼル通りには多くの商人が住むようになり、また市門の近くには旅籠(居酒屋)が軒を連ねていたそうです。
こうした名残で今日でもこの辺りにはレストランが多く、また、初の店舗がオープンする以前から軒先で物を売る習慣もあったようです。
この通りには15世紀・16世紀・17世紀に建てられた建物もありますが、ファサードについては19世紀のものが多く見られます。第二次大戦中のナイメーヘン空襲においてヘーゼル通り[Hezelstraat]は、奇跡的に破壊をまぬがれ、今日まで遺ることができました。
ヘーゼル通り[Hezelstraat]とは、「Hees村へ続く道」という意味があるそうで14世紀にはすでにこの名前で呼ばれていたそうです。Hees村はかつて、現在のNieuw-West districtに存在した村です。



5.★聖ステーフェン教会[Stevenskerk]

- 教会
- OPEN春夏秋 : 月 – 土 10:00 – 17:00 , 日 12:00 – 17:00
- OPEN冬 : 月 – 土 11:00 – 16:00 , 日 12:00 – 16:00
- CLOSE11月・12月上旬・2月・3月
- 入場料€ 2,00
- 所在Sint Stevenskerkhof 62, 6511 VZ Nijmegen
- WEBSint Stevenskerkhof
- 塔
- OPEN春夏秋:月11:00 – 13:00 / 水土 14:00 – 16:00
- 料金€ 4,00
- WEBOpeningstijden St.Stevenstoren
聖ステーフェン教会の見どころは大オルガン、塔に登るツアー、そして質素な内装と教会修復に関わる展示かと思います。塔に登るツアーは開催時間に変更が生じることがあるので、公式サイトでスケジュールも要チェックです。
私が訪れた日は、Gerry Dobbelaer さんの絵画展が開催されていて、16時からはコンサートが予定されていました。遅い時間に行ったので塔に登るツアーの受付が終了していたのは残念です。登った方のブログを見つけたので項の末尾にリンクを貼っておきます。
この教会の建設は13世紀後半にケルン大司教によって始められたとのことです。じつはこれ以前に、ファルクホフ城近くに同教会が建っていました。これが城壁の建設に伴って現在の場所に建て直されることになったようです。Construction phases from 1254 to 1969の図に拠れば、下地と、現在見られる建物の中央西端の部分が最も古く1254年~1310年頃のものとなっています。
教会は14世紀・15世紀・16世紀前半を通じて拡張されますが、1566年以降は建設が中断されます。この時期はちょうどヨーロッパで革新運動[宗教改革]が広まりローマ・カトリック教会からプロテスタント各派が分離・発展した頃です。
ナイメーヘンでは、プロテスタントがカトリックを抑圧するほど勢いを増しました。このためスペイン国王(カトリック派)から目の敵とされ幾度も包囲されます。当時のオランダはハプスブルク家スペイン王国の支配下にあり、反乱を起こして八十年戦争51に突入していました。
こうした背景があって、教会は未完成のまま、プロテスタント教会になったりカトリック教会に戻されたりしました。
このような状況のナイメーヘンをオランダの総督マウリッツ(プロテスタント派)が1591年に奪還します。これを機に聖ステーフェン教会は決定的にプロテスタント教会に変わりました。
さて、八十年戦争が終わって独立したオランダに、今度はフランスのルイ14世が侵攻してきました。1672年から1674年にかけて、ナイメーヘンはフランス軍に占領されます。このとき教会は一時的に、ふたたびカトリック教会として使用されました。
1810年以降、教会はナイメーヘン改革派教会の所有となり、塔については自治体が保有して、現在に至るそうです。教会と塔は所有者が違うんですね。
1944年2月の空襲によって塔の上部が倒壊し教会は大きなダメージを受けました。修復作業は1948年から1969年にかけて行われました。



私は、たまたまコンサートが始まる時間に居合わせたので素敵な歌声を聞きながら見学できました。ただ、無料のコンサートだと思っていたら、なにやら別途有料(€15)の3時間に及ぶコンサートだったようです(!)
にも拘わらず教会を見学できる時間と30分ほど重なっていたようで、私を含め観光客が出入りしていました…。受付でも何も言われなかったので不思議です。
教会は装飾の多い外観に比べて内部はあっさりしています。そもそもプロテスタントの教会は装飾が控えめではあるのだけれど、それにしても非常に簡素な印象だったのでちょっと驚いていたのですが、
17世紀オランダ絵画さながらの無機質な感じ
とコメントされている金獅子亭 別館 旅行記を見つけて、にわかに4次元(時空)を感じてテンションが上がった自分がおりました🎊
*51 現オランダに相当する地域は16世紀からハプスブルグ家スペイン王国の支配下に置かれたが、新教徒弾圧や経済的利益の上前を撥ねられることなどへの不満から、大小の領主や都市民がスペインに対して反乱を起こした戦争。途中12年の休戦を挟んで80年続き、結果的にオランダ共和国の独立につながった。
6.ラテン語学校[LATIJNSE SCHOOL]

1564年にケルン大司教によって設立された、かつてのラテン語学校※61です。初期ルネサンス様式で建てられています。1842年からはギムナジウムとして使われました。ギムナジウムは19世紀ころからラテン語学校に代わって広まった学校です。
ラテン語学校の権限は開校後まもなく市に移り、また1591年(総督マウリッツによるナイメーヘン奪還の年)以降はプロテスタント勢によって管理されることになりますが、建設当初のカトリックらしい装飾が今も見てとれるとのことです。
たとえば、窓と窓の間に配置された[Ten Commandments]のテキストもそのひとつ…とミニガイドブックに書かれています。アルクの英辞郎さんに訳してもらうと Ten Commandments とは[十戒]10の神聖な掟、とのことです。
窓と窓の間…というと、聖人のようなオジサマ像が並んでいるのが目立ちますが、テキストがどこにあるのか私は見つけられませんでした。12体並ぶこの像は、十二使途だそうです。それぞれの使途の頭上をまっすぐ見上げると、ガイコツと骨の彫刻も見られます。入り口の上部にあるのは4人の教父[four church fathers]像だそうです。
…キリスト教の登場人物を知っていないと味わいきれない感が…😅。まったくもって何も知らないので(あるいは忘れてるので)、また折をみて概観をつかんでおこうと思います。
ところで Wikipedia を徘徊していたら、ギムナジウムの語源を知りました。ギリシア語で「裸になる場所」だそうです。…えっ😲
スポーツが裸で行われるものだった古代ギリシャでは兵士を育てる訓練所がガムノス[gumnós]と呼ばれ、これが転じて後の世で学校[gymnasium]となったそうです。ちなみにドイツ語で体操のことを gymnastics というらしいです。
*61 ラテン語学校はヨーロッパで広く普及した中上流家系の男子のための進学校。大学の講義がラテン語で行われるため主にこの必須言語で学ぶ。起源は13世紀にさかのぼり当初は教会の管理下にあったが14世紀以降は市が財政的負担を引き受け権限を持つ。16世紀後半以降、オランダのほぼすべての都市といくつかの大きな村にラテン学校が設けられた。
7.1944広場[Plein1944]

1944広場[Plein1944]は、戦後の街の再建計画によって1950-1955年に造られました。名称は、第二次大戦中の米軍によるナイメーヘン誤爆およびナチスからの解放の年に由来します。
1953年に撮られた写真では、広場の中央にジャックマリス戦争記念碑[Oorlogsmonument van Jac Maris]が見えますが、移設されたのか、広場の様子が変わったのか、現在は広場の西側の建物の近くで見ることができます。
ちなみに、広場の名称の候補は他に"ヘンドリック(7世)広場 [Koning Hendrikplein]" というものも挙がったそうです。ヘンドリック(7世)は、1230年にナイメーヘンを都市として認め、都市特権を与えたドイツ王(1220–1235)です。
お昼時だったので私は某サンドイッチショップで昼食をとりました。
8.ナイメーヘン歴史館[Huis van de Nijmeegse Geschiedenis]

- OPEN火~土 11:00-17:00 / 日 12:00-17:00
- 入場料おそらく無料?
- 所在Mariënburg 26, 6511 PS Nijmegen
- WEBhuisnijmeegsegistory
ナイメーヘン歴史館[Huis van de Nijmeegse Geschiedenis]という施設が、おそらく…あの教会に併設されています。普通の教会だと思って素通りしてしまい、入っていないので詳細はわかりません😭
公式サイトによれば、常設展と期間別の展示があり、質問に答えてくれる人がいるそうです。ナイメーヘンの略史について50のトピックスに分けて紹介しているページを見つけました(英/仏/独/伊)!🐣
9.マリケン通り[Marikenstraat]

マリケン通りはナイメーヘンで最も新しいショッピングストリートです。旅の目的がお買い物ではなかったので私は素通りしてしまいましたが😅 2階通路もあってショッピングモールのようです。屋根がないぶん解放感があります。
10.旧トラム駅のキヨスク・カフェ[Kiosk Hunnerpark]

- OPEN 情報なし
- 所在Sint Jorisstraat 35, 6511 TC Nijmegen
- WEBKiosk Hunnerpark
フンネル公園[Hunnerpark]の南の入り口にあるのは、1911年築のトラムの衛兵所(係員の詰所?)です。現在はカフェ(またはスナックバー)として運営されています。
ナイメーヘンでは1910年から複数の会社によって蒸気トラムが運行されており、ちょっとした名物になっていたとのこと。それは[Beek]経由で[Berg en Dal]へ向かう2番系統が、高低差80メートルの “山道” を走ったからだそうです。
11.★ベルヴェデーレ塔[Belvédère]
ベルヴェデーレ塔は現在イベント会場(予約制のレストラン)になっているため、ご縁がないと屋上に登れませんが、塔の入り口付近のバルコニーは誰でも立ち入ることができます。ここから見下ろすフンネル公園のガーデンとワール川に架かる橋の眺めはじゅうぶん素敵です。
1585年にナイメーヘンを訪れたパルマ公*111がイタリア語で「良い眺めだ(Bel vedere !)」と言ったことから、この名がついたというベルヴェデーレ塔。もとは見張りの塔で、15世紀後半の新たな市壁の建設に伴って建てられました。フンネル公園内で見られる市壁の一部は、このとき建てられた市壁だそうです。
塔は17世紀半ばにルネサンス様式で増改築された際に、屋上の手すりと、入り口に見られる市の紋章が取り付けられました。この頃には、見張りの塔としての役目は失い、娯楽施設として、また高位の客を迎える宴会場として利用されたそうです。
19世紀の終わりころ、損傷が激しかったため大修復が行われ、入り口にある市の紋章もリニューアルされました。



*111 たぶん第二代パルマ公オッターヴィオ・ファルネーゼ?
12.★ファルクホフ博物館[Museum het Valkhof | Nijmegen]

広場西にある淡い水色のモダンな建物がファルクホフ博物館[Museum het Valkhof | Nijmegen]です。
イタリアのローマを中心に栄えた古代ローマ帝国は、オランダまで及んでいました。なので、地面を掘り起こすと、出るのです…!遺跡や貨幣や道具の数々が。というわけで、ナイメーヘンとヘルダーラント州からの発掘品が丁寧に展示されているのが、この博物館です。
実はローマ時代の品だけでなく石器時代・中世~近世・近代のものも展示されている上に、モダンアート展も併設されているので、1~2時間でかなり幅広く楽しめる博物館です。
図説でもよく見かける[青銅と金銀メッキ製の兜マスク]がここにあります。(…が、特別目立つような展示はしていないので、他のものに気を取られていると見落としそうです。)
ローマ軍の兵士が使っていたとされるこの兜マスクは1世紀後半のもので、発見されたのは20世紀初頭、場所はワール川に架かる鉄道の橋から遠くない地点だったそうです。良く見ると額上部にヒンジがついています。上向きにマスクを上げて、顔を出すことができたようです。
ローマ時代の発掘品はこのほか、BC1世紀~AD1世紀頃のゴブレット(器)、AD15年頃の柱の一部、AD100頃のトラヤヌス帝の頭部ブロンズ像などを見ることができます。受付で英語のガイド板(?)を借りて、これらの解説を読むことができます。ガイド板…と書きましたが、ラミネート加工されたA4サイズの紙が綴られたものです。
細かく小さな出土品も丁寧に陳列されています。基本的に説明文はオランダ語のみですが、図解や模型もあるのでそれなりに楽しめます。
中世以降の展示品では、絵画が印象的でした。17世紀のファルクホフ城、城塞マップ、ネイメーヘン条約を描いたもの、ひとつの額に25コマの風景画が描かれた作品、印象派タッチで描かれたフローテマルクトの様子などがありました。



13.★ファルクホフ公園(城の跡地)[Valkhofpark]

ファルクホフ公園とその周辺はナイメーヘン歴史散策のハイライトです🐣
城は解体されて公園になっていますが、聖ニコラウス礼拝堂とバルバロッサ遺跡が遺されていて、ローマ時代の建材を含んでいます。かつてローマ人が要塞を築き、中世には立派な城が建ち、歴史的に主要な地域となった時期があったことを知ると味わいが深くなります🍵 ということで、以下に略史をば。
なお、城が解体されたのは18世紀末です。オランダで愛国者運動*131が盛んになり、それまでのオランダ共和国に取って代わってバターフ共和国*132が成立した頃のことでした。
先史~古代:平らなオランダでは珍しく、この公園は丘の上にあります。この丘に古くは新石器時代から人の定住痕があり、またローマの記録では前100年頃からバターフ(西ゲルマン)人が、この丘を中心に定住していたそうです。(元はライン川上流に住んでいたバターフ人がローマ人によってここに移住させられたかも?)。ただ、前15-12年頃にはこの一帯にローマ軍のキャンプが建てられて、バターフ人は追い出されたようです。
バターフ人は紀元後69-70年頃にローマに対して反乱を起こしています。これは間もなく鎮圧され、両者は友好関係を回復しますが、その後のバターフ人の記録はなく彼らはプツリと歴史から姿を消してしまうのだそうです。近世に入ってから建国された[バターフ共和国]の名称とも 実質的な繋がりはないのです。
ナイメーヘンに駐屯したのはローマ第10軍団ゲミナです。第10軍団は紀元103年にビンドボナ(現オーストリアのウィーン)へ移り、このためナイメーヘンの人口と経済は下降したようです。
中世:400年頃、ローマ軍が撤退すると同時に北や東からゲルマン人の流入があり、やがて現ベルギー南部を中心にフランク王国が築かれて、ナイメーヘンも王国の一部となり、この丘に城が建てられました。この城には、かのカール大帝も滞在したとのことです。
中世以降、この丘はファルクホフとして知られることになります。でも、その名称の由来はわからないそうです。
フランク王国はその末期に幾度か分裂し、結果的に現ベネルクス3国に相当する地域が神聖ローマ帝国に併合されます。お家騒動で紆余曲折を経ている最中のある冬(880-881)、ファルクホフ城をバイキングが占領していたそうです。
神聖ローマ皇帝オットー2世(955-983)の妃テオファヌ(960-991)はファルクホフ城に居住し、ここでその生涯を終えました。埋葬地は現ドイツのケルンだそうです。城内に聖ニコラウス礼拝堂が初めて建立されたのは、やや後、1030年頃とのことです。
1047年にファルクホフ城は、ゴットフリート3世(c997-1069)の乱*133で焼討にあいました。これを1155年に神聖ローマ皇帝フレデリック1世[赤髭王 / バルバロッサ]が再建し城壁も建設します。現在見られるバルバロッサ遺跡は、このときに建てられた礼拝堂です。皇帝フレデリック1世は頻繁にこの城を訪れ滞在したそうです。ドイツ王は一定の場所に住むということがなく、常に国中を旅しており、数週間あるいは数か月を自身が所有する城で過ごしました。
この頃から神聖ローマ帝国では、公爵領・伯爵領・司教領の領主が権力を拡大し始め、いわゆる[領邦国家の発展]の時代を迎えます。ナイメーヘンを含む皇帝領がどうやら、負債の担保としてヘルレ伯の手に渡ったようです(皇帝フリードリヒ2世 VS 教皇グレゴリウス9世の時代?)。
13世紀にヘルレ伯がファルクホフ城を拡張し、多くの絵画や地図に見られるようなファルクホフ城の姿が現れました。このヘルレ伯/候領のナイメーヘンも、16世紀半ばにはスペイン=ハプスブルグ家の支配下に置かれます。


近世:対スペイン八十年戦争を経て1648年に成立したオランダ共和国は、衰退の18世紀を迎えます。総督&陸海軍最高司令官のオランイェ公ウィレム5世(1748-1806)は優柔不断で無策だったそうです。対英戦争(1780-84)で多数の植民地を失って責任を問われ、国内を転々と逃げ回っている途中でファルクホフ城にも滞在しました。
1787年には、これを見かねた隣国ドイツのプロイセン王国が秩序の回復を口実に介入します。その軍隊は同年9月11日にファルクホフ城に到着し、翌日にホラントへ向けて進軍したそうです。
ファルクホフ城が解体されるのは1797年です。オランダ共和国に代わってバターフ共和国(1795-1806)*132が樹立された時代です。国民主権の国家において、このような城は忌まわしいものでした。
解体に際して、アマチュアの歴史家が「ローマ時代の遺跡を含んでいる」として州議会と市議会を説得したおかげで、聖ニコラウス礼拝堂とバルバロッサ遺跡だけは保存されることになりました。このため両礼拝堂はローマ時代に起源をもつものと、長らく信じられていたそうです。
解体された城の残骸は建築材料として各地へ売られ、跡地は英国風の公園になりました。



*131 総督(オランイェ)派 VS 都市貴族(レヘント)派 のいずれにも与しない第三極として新たな政治体制を目指した人々。フランスの啓蒙主義の影響を強く受けていた。
*132 ハプスブルグ=スペイン王国から独立して1648年に成立したオランダ共和国が1795年に廃され、代わってバターフ共和国が樹立された。フランスの啓蒙主義の影響を受けた愛国者[パトリオッテン]派によって樹立された国民主権国家だが、残念ながら実態はフランスの傀儡国家だった。
*133 時の神聖ローマ皇帝ヘンドリック3世[ハインリヒ3世]が、ロートリンゲン公の権力の増強を恐れて、その領土を兄弟で上下に分割して相続するよう横やりを入れたり、公位を剥奪するなどしたことに対する反乱。戦いは皇帝ヘンドリック3世の勝利で幕を閉じるが、次代皇帝がゴットフリート3世に下ロートリンゲン公領の相続を認める。
*133 (補足)以降、ロートリンゲン公の爵位は転々とした後にブラバント公が継承することで落ち着き、この爵位は1795年まで続いた。ただし、下ロートリンゲン公として支配域は元ロートリンゲンの一部、現ベルギーのルーベンにとどまる。
14.★バルバロッサ遺跡[Barbarossa-ruïne / Sint-Maartenskapel]

1047年に焼討にあって荒廃した城*141を、1155年に神聖ローマ皇帝フレデリック1世[赤髭王 / バルバロッサ]が再建し、城壁も建設しました。現在見られるバルバロッサ遺跡は、このときに建てられた城の一部です。
この遺跡は、建設された年代よりも古い石材を含んでいます。聖ニコラウス礼拝堂で配布されているリーフレット(€0.50)によれば、おそらくは近隣に横たわっていたローマ時代の遺跡を建築材料として使ったためだろうとのことです。
現在残っている部分は礼拝堂の後陣と考えられ、天井のアーチがローマ時代の柱[ピラー]で支えられています(!)柱はカララ大理石製で、柱頭がカロリング朝スタイルだそうです。地下(?)および2階もあったようなことが書かれています。
また実際のところ、この建物が本当に礼拝堂として機能していたのか、あるいはもともとは玉座の置かれていた場所なのかなど断定はできないのだそうです。
ハイライト8選コース:公園内の北西に、聖ニコラウス礼拝堂[Sint-Nicolaaskapel]があります。
*141 ゴットフリート3世(c997-1069)の乱で荒廃して以降、皇帝フレデリック1世が再建するまで城は放置されていた。
15.★聖ニコラウス礼拝堂[Sint-Nicolaaskapel]

- OPEN4月-10月 火~日 11:00-16:45
- CLOSE11月-3月 & 月曜
- 料金無料
- 所在〒6511 VL Nijmegen
- WEBVALKHOF CHAPEL
この礼拝堂は1030年頃にロマネスク様式で建てられ、1047年に起こった城の焼き討ちでもかろうじて遺り、1400年頃にゴシック様式で手が加えられたそうです。…ロマネスクと思われる部分と、ゴシックかなぁと思われる部分の写真を項の末尾に貼ってみます。
聖ニコラウスは主にビザンツ帝国で崇拝されていた聖人です。礼拝堂の中にあるリーフレット(€0.50)によれば、ビザンツ帝国から神聖ローマ皇帝オットー2世に嫁いだテオファヌ(960-991)によってもたらされた信仰だと考えられるそうです。この聖人こそ サンタクロース / シンタクラース の原型の聖ニコラウスです。
1570年に天井にフレスコ画が描かれました。この年、スペイン国王フェリペ2世の4番目の妃として嫁ぐアンナ・フォン・エスターライヒが、オーストリアからスペインまでの道中でナイメーヘンに立ち寄ったそうです。
礼拝堂の内部には、在りし日の城の模型があります。



17.ローマ時代の床暖[Hypocaustum]

ミニガイドブックが、さりげなくこの「ローマ時代の床暖」に言及していたので、探しました。オランダカジノ[Holland Casino Nijmegen]の建物北面、おとなりのレストランとの境に近い西端の窓を覗き込むと、見ることができます。中が見えにくいタイプのガラス窓なので、見つけるのに苦労しました💀
ローマ時代の床暖設備の一部…と言われてみないと、いつの時代の何なのか、私にはさっぱりわからない石造りの床の一部がそこにありました。苦労して見つけたわりに、「見た!」以外の感動の仕方がわからない己の悲しさよ…。ところが!ローマ時代の床暖について調べてみると意味がわかるようになって、撮影した写真を改めて見たときに感動しました(笑)
古代ローマの床下暖房は[ハイポコースト]と呼ばれ「下から熱する」という意味を持つそうです。床を持ち上げて床下に空間を作り、炉からの熱気と煙を送り込んで屋根付近の送管から排気するという、セントラルヒーティングシステムでした。この構造は、ローマ浴場のカルダリウムの写真を見るとわかりやすいです。
18.通行料徴収人の家[Besiendershuis]

この建物の名称[Besiendershuis]は、ワール川を往来する船から通行料を徴収するのが仕事だった besienderさん(人名あるいは「使用人」の意味?) にちなんでいるのだそう。
ステーン通り[Steenstraat]に建つこの家の建築時期は16世紀、1525年頃とされています。後期ゴシック様式の中でも特にライン川下流域で見られる様式だそうです。と言われてもよくわからないので、建築史の概観もおいおい調べたいと思います。この家は国定史跡に指定されています。
16世紀当時のステーン通りには、この建物からイメージできるようなエレガントさはなく、むさ苦しい下宿や貸間・パブ・売春宿などがひしめいて騒がしかったと、ミニガイドブックには書かれています。なので西洋の史劇系の映画で見られる下町のそういう一角の情景を思い浮かべながら通りを歩いてみたり…🚪
19.★フローテ・マルクト[Grote Markt]

ワール川に面したナイメーヘンは交易が盛んでした。この大きめの広場は、かつての交易の中心地(市場)のひとつです。広場の北面に計量所[Boterwaag / De Waagh]、西面に布の会場[Laeckenhal]、中央にマリケン像[Mariken van Nieumeghen]を見ることが出来ます。
計量所[Boterwaag / De Waagh]:現在みられる計量所は1612年築のルネサンス様式で、14世紀末に建てられたミートハウス(食肉屋)を建て直したものだそうです。商人は、ズルをしないよう計量所で商品の重さを計って公正に取引することを義務付けられていました。
建物内の右側(西側)に計量機器があり計量が行われ、左側(東側)地下では食肉が取り扱われ、搬入と搬出をふまえて建物の正面と背面には大きなドアが設けられました。
中世において、食肉を扱う場所は衛生的ではなく、夏にはそれなりの匂いを発したようです。売れ残りの肉は2日後に、よそへ移さなくてはなりませんでした。このような肉は市門の外で安く売られたそうです。
建物の上階は、市の衛兵や駐屯兵が利用することを意図して作られ、市を見渡すことができたようです。[Achter de Hoofdwacht]というのは、どうやらオランダ語で「衛兵の背後」という意味のようで、建物の東側の通りの名になっています。
布の会場[Laeckenhal]:広場の西側にあり、1階部分がトンネル状(ピロティ構造?)になっていて聖ステーフェン教会まで通り抜けできる建物が、それです(たぶん)。
14世紀末に建てられ、その幅約54メートル…ということで、おそらく右に連なる建物も含んでいたのかな?と思います。ミニガイドブックによるとファサードにいくつかの柱が見られる…らしいのですが、この柱を見つけることが出来ませんでした。
当時はたいていの衣類はウール(羊毛)を紡いで作られていたので、「布」は高級品でした。このため織物生産業には専門職人が従事し、ナイメーヘンには布組合[布ギルド]も存在したそうです。布の会場では、布商品の取引が行われたり、ギルドの会合が開かれたそうです。
マリケンの像[Mariken van Nieumeghen]:マリケンは架空の物語の主人公の女性です。16世紀初頭にアントワープで書かれた物語だそうですが、その舞台が15世紀のナイメーヘンなのだそうです。
あらすじをいうと、マリケンは悪魔と7年暮らし、その罪に気づいた日から悔い改めて、叔父の助けを得て悪魔のもとを離れ、その罪を許されるためにケルン大司教とローマ教皇を訪ねて旅をし、最後にマーストリヒトの修道院に入って罪を許されたのち、2年後に息を引き取るのだそうです。
ただ、そもそもマリケンは、とある村から買い物のためにナイメーヘンに赴いた日に叔母の家で宿泊を拒まれて、街を彷徨っていたら悪魔に声をかけられたらしいので、えらく気の毒な気がします…😥
実はこの「悪魔」のほうも、聖ステーフェン教会前の階段に像が建てられています。
観光マップと年表
ナイメーヘン観光マップ
このページに掲載した施設やモニュメントを「青いピン」で記しました。「青い線」は「スポット19選モデルコース]」:上述のスポットを網羅し記事と同じ順序で巡っています。「赤い線」は「ハイライト8選モデルコース]」:ショートカット版です。
–>ナイメーヘンの略年表
時期 | オランダ主要地域 | ナイメーヘン |
---|---|---|
先史 |
前1万:最後の氷河期終わる前1900:青銅器時代前750:鉄器時代
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新石器時代・青銅器時代中後期・鉄器時代中後期の居住痕
100BC頃:バターフ(西ゲルマン)人が丘(現ファルクホフ公園)に定着
ローマ人が[Oppidum Batavorum]と呼称
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古代 |
前57-後406:ローマ支配期
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前15-:ローマ軍のキャンプ跡
Kopse Hof にローマ軍司令塔
69-70:バターフ人の反乱
71-104:ローマ第10軍団ゲミナ駐在
98-102:トラヤヌス帝時代の新たな入植
都市の名称:Ulpia Noviomagus Batavorum
c200:丘(現ファルクホフ公園)にカストルム建設
c400:ローマ帝国崩壊・撤退
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中世 |
481:メロヴィング朝フランク王国-650:キリスト教が普及650-850±:カロリング帝国(800:カール大帝 / 870:メルセン条約)962-:神聖ローマ帝国 / 領邦国家の発展1200-:都市の発展1432-:ホラント伯領がブルゴーニュ家支配下に1477-:ホラント伯領がハプスブルグ家支配下に
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777:カール大帝がナイメーヘンでイースターを祝う
c800:カール大帝が城(Paltz)を設置(司法と徴税)
880-881:ヴァイキングが城を占領後、焼き払う
962-:オットーI、II、IIIが城に居住
1047:ゴットフリート3世(ロートリンゲン公)が皇帝ハインリヒ3世と対立して蜂起し城を焼討
1155:フレデリック・バルバロッサが市壁を築き城を再建
1230:都市の権利を獲得
1247-:ナイメーヘンの町がヘルレ伯オットー2世に帰す(都市の権利は残る)
1254:聖ステーフェン教会建立(ホラント伯ウィレム2世=神聖ローマ皇帝が関連?)
13世紀-:ヘルレ伯が城を拡張
1339:ヘルレ伯領が侯領に格上げ(BY Lodewijk de Beier)
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近世 |
1504:ハプスブルク家ブルゴーニュ侯がスペイン国王に即位1568:八十年戦争始まる1581:スペイン国王廃位令1609-1621:休戦1648:八十年戦争終わり独立 ネーデルラント連邦共和国1795-:バターフ共和国(仏傀儡国)1806-:ホラント王国(仏傀儡国)1810-:フランス併合時代1815-:ネーデルラント連合王国1839-:オランダ王国
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1543-:ハプスブルグ家支配下に80年戦争中、幾度かスペインに包囲される
1566:カトリックとプロテスタントの平等
1579:カトリックが抑圧される
1585:プロテスタントが特権を失う
1591:総督マウリッツによって奪還
1601-1604:港の移築と拡張
1672-1674:フランスに占領される
1678:[ナイメーヘンの和約]で返還
1787.9.11:プロイセン軍が城に到着、翌日ホラントへ進軍
1794:フランスによる攻撃、都市の火災、城の損傷
1795:城の破壊が決定(聖ニコラウス礼拝堂、バルバロッサ遺跡だけ遺す)
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近現代 |
1940.5:ロッテルダム空襲 ナチスに降伏1944-1945:ナチスからの解放
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1852:Waalhaven(港)建設、旧港埋立
1886:橋の建設
1890-1911:オランダ領インド軍欧州支部
1909:初の4日間ウォーキング
1944.2:連合軍による誤爆
1944.9:マーケットガーデン作戦失敗
1981.2:ピアソン暴動
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関連情報と参考資料
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ハールレムのクリスマスマーケットのおでかけレポート【後編】です。(写真17枚)。19世紀の衣装をまとった人が旧市街を行き交い、教会や市庁舎では合唱や演奏が行われます。
新型コロナによる影響
最新情報など
- 在オランダ日本大使館
- 新型コロナウイルスについて(日本国大使館より発出した過去の領事メール等)
- ポートフォリオ・オランダニュース
- オランダ国内に関する日本語ニュースサイト
- RIVM Committed to health and sustainability
- Current information about the novel coronavirus (COVID-19)
- dutchnews.nl
- DutchNews.nl is a provider of quality Dutch news and current affairs in English for an international audience.
- 外務省海外安全ホームページ
- 外務省海外安全ホームページ
参考資料
- Wikipedia:
- Kronenburgerpark Station Nijmegen Bombing of Nijmegen Kronenburgerpark Geschiedenis van Nijmegen Lange Hezelstraat Belvédère (Nijmegen) ローマ軍団一覧 Square 1944 History of the Netherlands Hertogdom Neder-Lotharingen List of rulers of Lorraine
- その他:
- ROMAN THERMAE NIJMEGEN What to do in Nijmegen | Institute for Management Research COMMANDERY OF ST. JAN NIJMEGEN TOURIST OFFICE Liberation Route Europe WAR KILLS NIJMEGEN 1940 – 1945 THERE ARE 80 RESULTS FOUND FOR “NIJMEGEN” Regional Archives Nijmegen City rights in the Low Countries City archives | huisnijmeegsegistory My Gelderland
- 印刷物:
- CITY GUIDE Nijmegen | visitnimegan.com Valkhof Nijmegen More Than 2000 Year’s of History | VALKHOF VERENIGING (www.valkhof.nl) 図説 オランダの歴史|佐藤弘幸|河出書房新社(2014.4.30) 図説 西洋建築の歴史|佐藤達生|河出書房新社(2016.11.30 増補新装版)