マーストリヒトを日帰りで観光してきました。歴史をを誇るバジリカ「聖母教会」と「聖セルファース教会」は、ロマネスク様式の教会堂。中世のたたずまいです!13世紀から遺る南のシティゲート「地獄の門」と、17世紀の絵画のようなマース川の夕焼けも堪能しました。

現地滞在は6-7時間。ミッフィー専門店でのお買い物と、昼食&夕食も現地で済ませました。

海の星マリア様って?聖セルファースはいつのひと?バジリカってつまり?歩くと知りたくなることたくさん。帰宅してからも調べていたら記事のアップが遅くなりました😄

1.聖母教会[Basiliek Van Onze Lieve Vrouw]

聖母教会西側の入り口

聖母教会はローマカトリック系の教会堂で、ロマネスク様式が特徴です。多くの人が海の星マリア像を見るために訪れるのだそう。

入り口は西側にあります。ゲゲゲの鬼太郎に登場する「ぬりかべ」のような、まっ平らな壁が高くそびえているので目立ちます。両サイドに建つ塔には壁を補強する役割もあります。

教会で販売しているリーフレットや Wikipedia(en) によると、この入り口部分が現存する中で最も古く、11世紀の建築とのことです。

聖母教会西側(11世紀築)― 友人撮影
East choir with ambulatory and gallery
Main chamber of the Treasury
聖母教会の歴史ざっくり

Basilica of Our Lady, Maastricht, The Netherlands. Roman blocks of stone used for the 11th century westwork.
ローマ時代にこの場所にあった建物は「ジュピターに捧げる神殿」だったと考えられています。

この神殿跡に、町で最初のキリスト教会堂が建てられました。4世紀~5世紀頃にはトンゲレン(現・ベルギー)~マーストリヒト地域を管轄する大聖堂の地位を得ていたようです。西端の低い部分には、かつてのローマ要塞から流用したと思われる建材が使われています(写真)。

12世紀が始まる頃には、この教会は、リエージュを中心とする司教区のいち教会(小教区)になっていました。しかし司教座のあるリエージュとは結び付きが強く、中規模の教会でありつづけました。

たとえば聖堂参事会員は、リエージュ(現・ベルギー)の司教によって任命され、参事会長はリエージュの聖堂参事会員から選ばれていました。

現在おなじ市内に「聖セルファース教会」があります。こちらは、神聖ローマ皇帝との結びつきが強い教会で、聖堂参事会員はドイツの大貴族から選ばれていました。

オランダは1794年から実質的にフランスに併合されます。当時のフランスの指導者はフランス革命に成功した革命派…からのナポレオン皇帝でした。

聖堂参事会は解散させられ(1798)、教会の宝物は紛失し、本堂と修道院は、フランス兵の馬小屋および鍛冶屋として使われました。

オランダは1815年に王国として復活しますが、この教会堂の混乱した状況が収束したのは1837年だそうです。この年に教会はようやくキリスト教を信仰する人々に返還されました。

この際に、教会に隣接していた聖ニコラウス礼拝堂が閉鎖されて「海の星マリアの像」を引き継いだ教会本堂が、聖母教会として再出発することになりました。

1933年には、ローマ教皇から『バジリカ・マイナー』の称号を授かり、現在に至ります。

ソースBasilica of Our Lady, Maastricht
ウィキペディアの聖母教会(英語)ページ
用語聖堂参事会とは | チリツモ【中世ヨーロッパ情報館】
聖堂参事会について詳しい説明
参考図説オランダの歴史
(河出書房新社 2012.04 著者:佐藤弘幸)

徹底したロマネスク様式 中世にタイムトリップ

Restoration plan south side ( Cuypers , ca. 1885)

この教会の建築的な特徴は「かなり徹底したロマネスク様式」です。ロマネスク様式は中世初期(およそ6世紀~11世紀)の建築様式です。

西側と翼廊は、ロマネスク様式の中でもとくに「モサン様式」と呼ばれる建築様式だそうです。私には見分けがつきませんがっ。モサン様式とはオランダやベルギーなど、マース川流域で見られる建築様式の特徴です。

徹底したロマネスク様式の復元

Restoration plan south side ( Cuypers , ca. 1885)
建築様式はロマネスク以降、ゴシック、ルネサンス、バロック、ネオゴシック…などが続きます。この教会堂も、時代ごとの流行様式で手が加えられました。

さてしかし、19世紀にこの教会堂の修復を請け負った有名な建築家は「徹底したロマネスク様式の復元」を行いました(!)たとえばゴシック様式の大きな窓を、ロマネスク様式の小さな窓に変えるほどの徹底ぶりです。

このため聖母教会は、限りなく中世初期に近い雰囲気を感じることができるユニークな教会になりました。内部は薄暗く神秘的です。

「ロマネスク様式の復元」をテーマにして行われた修復ですが、時代ごとの遺産もちゃんと遺しているとのこと。たとえば14世紀の壁画が遺されていたり、一部の天井はルネサンス様式で修復されています。

ロマネスク様式の特徴って?

North tower and transept chapel
ロマネスク様式の外見上の特徴は一般に、重厚な壁、かまぼこ型天井、半円形アーチの連続開口と四角い支柱などと言われます。これはヨーロッパの中世初期(およそ6世紀~11世紀)の建築様式です。

ヨーロッパを席捲したローマ帝国は、4世紀末から衰退し、これにともなって円柱を切り出すための技術や社会構造も消滅しました。変わって、比較的小さな石材を積んだ四角い支柱が使われはじめ、中世の建築が始まりました。

かまぼこ形の天井は、横に広がろうとする力が加わります。このため、当時の人々は壁を分厚くすることで、これを支えました。中世初期の教会堂において、分厚い壁は、外界と隔離された神聖な空間を創り出すのにも一役かいました。

参考図説西洋建築の歴史ー美と空間の系譜
(河出書房新社 2016.11 著者:佐藤達生)
参考ロマネスクとは | コトバンク
コトバンク

海の星マリアの像は入り口近くの礼拝堂に

Star of the Sea chapel – interior

多くの人が「海の星マリアの像」を見るために、この教会を訪れます。回廊と北の側廊に面したゴシック様式の礼拝堂に、木製のマリア像が安置されています。

「海の星マリアの像」は15世紀に作られ、もとはフランシスコ男子修道院にあったそうです。19世紀はじめに、この教会に隣接していた聖ニコラウス教会に移されました。

まもなくその聖ニコラウス教会は閉鎖され、「海の星マリア像」を引き継いだこの教会が「聖母教会」として再出発しました。

この聖母教会の名称には「star of the sea(海の星)」という副題がついています。

「海の星」って…なに?

Interior Mérode chapel with ex voto ‘s
「海の星」って何?海の星マリア様ってなに?ふつうのマリア様と何が違うの?疑問に思ったので調べてみました。わかったことをざっくり言うと「海の星」は「聖母マリア」の別名みたいなもの、ということです。中世初期の頃から、聖母マリアは「海の星」と呼ばれていたそうです。

別名が「海の星」ってどういうことでしょう?

Wikipedia(en)によれば「おそらくは筆写ミスによるもの」だそうです。もともとヘブライ語で表記されていた「マリア」という名前が、幾度かの筆写ミスを経て「海の星」となったということです。

経緯はこうです:
語源:Miryam (מרים) マリア
筆写ミス:mar-yam (מר-ים) 一滴の海
筆写ミスの翻訳:stilla maris 一滴の海
翻訳の筆写ミス:stella maris 海の星

伝言ゲームにありそうな変化ですね^^;

さて「海の星」となったので、その名にふさわしく、航海の守護聖人としても信じられるようになりました。海岸沿いに建つ教会の多くに「海の星」が冠されている由縁でもあるそうです。

というわけで、「海の星」はこの聖母教会に限定された肩書ではなく、マリア様を奉るカトリック教会では広く使われている一般的な名称なのでした。

ソースOur Lady, Star of the Sea

2.地獄の門[helpoort]

地獄の門 外側
地獄の門の内側

オランダ国内に現存する市門の中で最も古い門です。

古くは土塀が建てられていましたが、最初の「レンガ造り」の市壁が13世紀に建造されました。この門はその時に造られた南門です。

市壁は6~8メートルの高さがあり、13の市門と2つの水門が設けられていました。

市壁と市門の大部分は19世紀末に解体されますが、この「地獄の門」は遺されました。1947年から「マーストリヒト要塞都市財団」が管理しています。

ところで、なぜ「地獄」なのでしょうか。その理由は以下の別枠にまとめました。

13世紀の市壁の内側
Winding staircase inside Helpoort, once part of the medieval fortification walls of Maastricht, Netherlands. The gate of 1229 is the oldest in the Netherlands.
The Helpoort seen over the city wall (Valentijn Klotz, 1669)
「地獄の門」の名前の由来は?

13世紀の市壁
この門が「地獄の門」と呼ばれ始めたのは18世紀以降です。「地獄の門」はオランダ語で「Helpoort」と書きますが、近くにあった「Helle huis」に由来すると考えられています。

「Helle huis」は「地獄の家」という意味かと思います。鍛冶屋やパン屋によくある名前だったそうです。かまどで火を使うからでしょうか。

あるいはまた、この市門が弾薬庫として使われた歴史も「地獄の門」の名称に反映されているのかもしれない、とのことです。

ソースHelpoort (Maastricht)
ウィキペディア「地獄の門」(蘭語)のページ

ゲートの上部には一部屋の空間がある

of Jef Schipper located in the Helpoort at Maastricht, June 1947

厚みのあるゲートの上部には、部屋があります。20世紀半ばに画家のアトリエとして使われました。現在は展示室になっていて、要塞都市としてのマーストリヒトの歴史資料を見ることができます(冬季閉館)。

他の市門より長く現役を勤めた「地獄の門」

Helpoort
1229年、一帯を領有していたブラバント侯が市壁建設の許可を出し、「レンガ造り」の最初の市壁が建設されました。この市壁は6~8メートルの高さがあり、13の市門と2つの水門が設けられていました。

約120年後の1350年頃には市が拡張されて、最初の市壁の外周に新たな市壁と新たな市門が設けられました。このため最初の市壁の市門は役目を終えます。

しかし南側については、リエージュ司教領に面していたため拡張することができず、「南の門(現・地獄の門)」だけは引き続き市門としての役目を担いました。

15世紀末にようやく南側の市壁も拡張されることになりました。これによって最初の市壁の「南の門(現・地獄の門)」の防衛上の重要性はさがりましたが、内部のスペースが職人のミーティングルームとして使われるなど、この門は以後も十分に管理維持されつづけました。新しい屋根が設けられることもありました。

近代では画家のアトリエとしても使用されました。現在は、要塞都市マーストリヒトの小さな歴史資料館として、一般に公開されています(冬季閉館)。

ソースHelpoort (Maastricht)
ウィキペディア「地獄の門」(蘭語)のページ
ん?「ペストハウス」ではない?

North facade with gates
地獄の門を出ると、やや東の正面に「ペストハウス」と呼ばれる建物を見つけることができます。俗に「ペスト病患者を隔離・収容した施設」と言われていますが、実は誤っているとのこと。

実際に、そのような施設が近くにありましたが、この建物ではないのだそうです。

現在「ペストハウス」と呼ばれているこの建物は、かつて製紙工場でした。

ソースPesthuys
ウィキペディア「ペストハウス」(蘭語)のページ

3.聖セルファース教会[Basiliek Van St. Servaas]

聖セルファース教会 祭壇側の外観

こちらもローマカトリック系の教会堂です。4世紀末に、マーストリヒトの最初の司教セルファースが亡くなり埋葬されました。その場所に木造の礼拝堂が建てられたのが始まりです。後に石で造り変えられました。

現在の教会堂は大部分がロマネスク様式で建てられていて、中央祭壇の外観は先の聖母教会とよく似ています。オランダに現存する教会堂の中で最も古いといわれています。

聖セルファース教会(修道院)の中庭
Kleine en Sint-Servaascrypte
View of the upper floor of the annex to the so-called Double Chapel in the Basilica of Saint Servatius in Maastricht, the Netherlands.

オランダに現存する最も古い教会堂

View of archaeological excavations in the basement in the so-called Double Chapel in the Basilica of Saint Servatius in Maastricht, the Netherlands.

聖セルファース教会はオランダに現存する教会の中で最も古いものと考えられています。

現存する最も古い部分は地下室で、6世紀築だそうです。主要部分は11世紀~15世紀に建てられました。

19世紀末から20世紀初頭にかけての修復は、聖母教会の修復にあたったのと同じ建築家 Pierre Cuypers によって指揮されました。

中世:神聖ローマ帝国との強い結びつき

Panorama photo Mountain portal (sides strongly distorted)
1039年に行われた奉納式には、神聖ローマ皇帝ハインリヒ三世と12人の司教が列席したそうです。

12世紀に聖堂参事会が設立されます。中世を通じて、参事会長はドイツの大貴族から選ばれました。少なくとも内8人の参事会長は大司教になったようです。

建物にも「帝国教会によくある特徴」が見られるのだそうです。どんな特徴でしょうか。気になっていますが、まだ調べられていません。

ソースBasilica of Saint Servatius
ウィキペディアの「聖セルファース教会」(英語)のページ
用語聖堂参事会とは | チリツモ【中世ヨーロッパ情報館】
聖堂参事会について詳しい説明
用語帝国教会 | コトバンク
コトバンクの用語解説
近世:教会堂が馬小屋になった時代

Neoclassical interior with lowered priest choir ( Van Gulpen , ca. 1840)
聖堂参事会は1797年に解散され、教会堂は兵士の馬小屋として使用されました。オランダが実質的にフランス革命派に占領され、つづいてナポレオン率いるフランス帝国に併合された時代です。

教会の宝物、装飾品は売り払われたり、盗まれたり、破棄されました。

教会堂は1804年に教区民に返還されました。聖セルファースの聖遺物箱に付属していた4枚のパネルは、古物商を渡り、現在ベルギーのブリュッセルにある王立美術館の所蔵になっているそうです。

ソースBasilica of Saint Servatius
ウィキペディアの「聖セルファース教会」(英語)のページ
チャーチ、カテドラル、バジリカってなにが違う?

聖セルファース教会 祭壇側の外観
「バジリカ」は、建築用語だったり宗教用語だったりして、文脈によって意味が変わります。キリスト教会の用語としては、ローマカトリック系で用いられます。

「バジリカ」の説明の前に、チャーチ(教会堂)とカテドラル(大聖堂)について整理しておきます。ローマカトリック系では、小教区に建つのがチャーチ、複数の小教区を包含した司教区に建つのが大聖堂です。大聖堂のほうが地位が高いです。

で、「バジリカ」ですが、こうしたヒエラルキーとは別物です。「バジリカ」とはローマ教皇によって与えられる「栄誉のようなもの」です、語弊があるかもしれませんが。

この栄誉は、チャーチ(教会)かカテドラル(大聖堂)かに関わらず与えられます。これによって上下関係が覆ることはありません

「バジリカ」には2種類あります。「バジリカ=メジャー」と「バジリカ=マイナー」です。

バジリカメジャーは4つしかありません。すべてローマにあります。サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂、サン・ピエトロ寺院、サン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂、サンタ・マリーア・マッジョーレ教会の4つです。

バジリカマイナーは、世界中に約1,757あります(2017年時点)。そのうちの2つがマーストリヒトの聖母教会と聖セルファース教会です。これらはいずれも小教区の教会であり、かつバジリカでもあるのです。

「バジリカマイナー」の栄誉は、どんな場合に与えられるのでしょう。What’s the Difference Between a Church, Chapel, Cathedral, and Basilica? | What’s the Differenceによれば、「歴史的・神秘的・建築的な意義が高い」場合に与えられるとのことです。

これから「バジリカ」を見つけたら、そのような価値が高いのだなと心得て見学できます☆長年の疑問が解決してすっきりしました。

聖人セルファースってだれ?

Christ, Saint Peter and Saint Servatius (right) on the altarpiece of the Westwork altar (ca. 1150-60)

聖人セルファースは、アルメニア出身の伝道師です。生年は不詳ですが、没年は384年と伝えられています。ローマ帝国で内輪もめが激しくなる頃です。

教会で販売されているリーフレットによれば、セルファースはトンゲレン(現・ベルギー)の司教の後継者だったそうです。しかしゲルマン人に追われてマーストリヒトに居をかまえた、と書かれています。

マーストリヒトで最初の司教となった聖セルファースは、亡くなると集落の外に埋葬されました。現在教会の建つ場所です。

この地には、はじめに木造の小さな礼拝堂が建ちました。570年頃に石造で建て替えられ、7世紀に拡張されて巡礼教会になりました。

セルファースが生きたのはローマ帝国東西分裂の前夜

Movements during the war between Constantius II and Magnentius .
当時、一帯はローマ帝国領でした。キリスト教は313年にローマ皇帝コンスタンティヌスによって公認されたばかりでしたが、はやくも教義が2派(アタナシウス派とアリウス派)に分かれていました。聖セルファースはアタナシウス派を強く支持していました。

アタナシウス派とは、ざっくり平たく言うと「イエスは神の人間の姿、人間バージョンの神」とする派です。対してアリウス派は「神は神、イエスは人間」とする派です。ざっくりすぎて語弊があるかもしれません、ごめんなさい。

325年の公会議でアタナシウス派を正統とする決定が下されていましたが、コンスタンティヌス帝の死後(337)に事態は混乱します。皇帝位の分裂が起こり、一時はキリスト教の公認さえ撤回され、アリウス派を支持する皇帝が現れるなどしました。内戦を経て4世紀末には東西に分かれました。

聖セルファースは384年にマーストリヒトで亡くなり、ローマが築いた塀の外に埋葬されました。

参考アタナシウス/アタナシウス派 | 世界史の窓
高校生、高校教員、一般向けの世界史用語集ほか
参考コンスタンティヌス帝 | 世界史の窓
高校生、高校教員、一般向けの世界史用語集ほか
ソースマーストリヒト聖セルバティウス・バジリカ日本語版(教会公式リーフレット 1997)
ソースServatius of Tongeren

4.ミッフィ専門店[de winkel van nijntje]

ミッフィー専門店@マーストリヒト

ミッフィー専門店に立ち寄って、お友達へのお土産を購入しました。

わりとあちこちで見かける気がするミッフィーグッズだけど、実は専門店があるのはアムステルダムとマーストリヒトの2都市のみです。

アムステルダム店は観光地から少し外れたところ(ベアトリクス公園の近く)にあるようですが、マーストリヒト店は旧市街からとても近かったです。ちなみにミッフィー博物館はユトレヒトにあります。

5.聖セルファース橋[Sint-Servaasbrug]

聖セルファース橋から東岸の眺め

聖セルファース橋はマース川に架かる橋です。駅と旧市街を往来するときに通ります。夕日の射す時間帯に、西から東へ渡ると17世紀の絵画さながらの景色を見ることができます。夕日が東岸の古い町並みをオレンジ色に照らし、川面に映します。

橋の全長は160メートル、幅は9メートル。7つのアーチに支えられています。

マーストリヒトの街並
Sint Servaasbrug zu Maastricht iwwer d’Meuse.
Maastricht, the Netherlands. View of Saint Servatius Bridge. Pedestrians can continue to cross while the movable part of the bridge is being lifted up.
オランダ最古の橋?

The damaged bridge after Allied forces liberated the city, 14 September 1944
橋の大部分は、第二次大戦後に建て直されました。でも、いちおう、オランダで一番古い橋ということになっています。

マース川下流に架かった最初の橋は、ローマ人によって紀元50年頃に建てられました。しかしこの橋は、1275年に崩壊してしまいます。大行列が通った時に重さに耐えきれずに崩れてしまったのです。400人が亡くなる大惨事だったそうです。

これに代わって少し北に造られた橋が、現在の聖セルファース橋の始まりです。1280年~1298年にかけて建てられました。

ローマカトリック教会は、この新しい橋の建設を奨励しました。「橋の建設を手伝った人々は、過去に犯した罪が軽減され死後に楽園に行ける可能性が高くなる」…として人員を募りました。

17世紀と19世紀に、橋の木製部分を石製に換えるなどのリノベーションが行われましたが、20世紀の第二次大戦中によってダメージを受け(写真)、戦後に大修復されました。

ソースSint Servaasbrug
ウィキペディアの「聖セルファース教会」(英語)のページ

感想:マーストリヒトは美食の街?

頭の中が「キリスト教」でいっぱいいっぱいになる日帰り旅行でした。知りたいことは尽きない…。もとが無知だから^^;

感想は少し趣をかえて、食事について書きたいと思います。

「オランダの料理は美味しいとは言い難いが、マーストリヒトなら…」というようなことが、一般によく言われます。『地球の歩き方』にも「マーストリヒトの味は、フランスに近く、洗練されている」と書いてありました。

なので、期待しました。ウェブでお薦めを検索し、レストランでお肉ごろごろの暖かシチューをいただきました。

お肉は柔らかく、味付けも凝っていました。ただ、やや酸味が強かったです。半分くらいまでは美味しくいただきましたが、完食はできませんでした。

昨年、マーストリヒトから近いファルケンブルグのレストランで食べたスペアリブは美味しかったです。オランダ北部の某レストランのスペアリブが表面の塩味が強く肉がボソボソだったのに比べ、まろやかな味がよくしみて肉もジューシーでした。

ただ、自分はあまり外食しないので、地域的な比較まではできません。北部でも最近、美味しいお店を見つけました。いまのところ地域差よりも、店や、好みや、メニューや、体調によるかな…くらいに思っています☆

お昼のサンドイッチ
この日のお昼は Bakker Bart というサンドイッチ専門店(EUR4.50 – 6.00)でいただきました。パンの硬さと、肉と野菜のパランスが絶妙です。私はSPARやHEMAの作りたてサンドイッチ(EUR 2.50 – 4.00)も好きです。すべて全国チェーンです。

ミッフィー専門店でのお買い物 デルフト焼きを模したマグネット

関連情報と参考資料

オランダの歴史を知る旅行記

歴史を知って深い旅がしたい! 【デルフト散策】 オランダ誕生の17世紀

デルフトの新教会 / 市庁舎 / デルフトの旧教会 / チョコカフェ

ヒエロニムス・ボス美術館をたずねて 【セルトーヘンボス】 聖ヤン教会と北ブラバント博物館も☆

ヒエロニムス・ボス美術館 / 聖ヤン教会 / 街並み / 北ブラバント博物館 / 名物ボッシュ・ボルをほおばる!

10月3日は解放記念のお祭り! 【ライデン】 露店・遊園地・パレード・博物館

食べ歩き / 移動遊園地 / ラーケンハル博物館 / パレード / ビュルフト要塞 /

ナイメーヘン - Nijmegen - 歴史散策

オランダ東部・ヘルダーラント州の町ナイメーヘンへ行ってきました。ドイツ国境に近く、古代ローマ帝国の北端に位置し、中世には神聖ローマ皇帝がたびたび訪れた街です。第二次大戦では、あろうことか同盟連合軍の空爆を受けていました(!)現地滞在8時間。19のスポットの場所や略史の他、新たに知ったこと・気になって調べたこと・感じたことを書き残しておきます。(勢い余って観光マップも作ってみました。)

オランダの歴史

オランダおでかけ日記

アムステルダムから鉄道15分 ハールレムのクリスマスマーケット 【屋台・露店・出店 編】

ハールレムのクリスマスマーケットのおでかけレポートです。オランダ最大規模のクリスマスマーケットのひとつ。毎年12月上旬の週末2日間に開催されます。

交通
解説 オランダ鉄道の切符を安く手に入れる方法! | Arto Explore
都市間移動 1日の交通費が16.5 ~ 20ユーロ以上かかる場合、NSや旅行代理店が発行する1日乗り放題の切符、あるいは旅行者用のチケットがお得な場合があります。このページでは、居住者及び旅行者向けに、鉄道を安く利用する方法をいくつか紹介&解説してくださってます。

もっとマーストリヒト

参考資料
Wikipedia:
Maastricht Our Lady, Star of the Sea Basilica of Our Lady, Maastricht Helpoort (Maastricht) Sint-Servaasbasiliek (Maastricht)
その他:
What’s the Difference 欧州建築史勉強部屋 観光局 ヨーロッパ人名対照表
印刷物:
図説西洋建築の歴史-美と空間の系譜-(河出書房新社 2016 増補新装版二刷 著:佐藤達生)
図説オランダの歴史(河出書房新社 2012.04 著者:佐藤弘幸)
なんでもわかるキリスト教大事典 (朝日文庫 / 2012.04.06)
地球の歩き方A19 オランダ・ベルギー・ルクセンブルク2016-2017(ダイヤモンド社 / 2016.07.01)
Maastricht Basiliek St.Servaas 日本語版(公式ガイド 1997)
The Church of Our Lady “Star of the Sea” Maastricht(公式ガイド 第七版 2016)