Middle east 中東

メソポタミア | 古代オリエント

ドゥル・クリガルズのジッグラト (2010年撮影) By U.S. Army photo by Spc. David Robbins – Working to Restore Iraq’s Past for the Future, CC0, Link

メソポタミアの地でシュメール人の都市国家を征服し領土を広げたアッカド王朝も、異民族(グチ人)の侵入で滅亡する。 シュメール人の王朝が一時復活するも、今度は遊牧民アムル人によって滅ぼされる。 アムル人が築いた都市国家のひとつバビロン第一王朝は、第6代のハンムラビの時代にメソポタミアを統一するに至る。 「目には目を」で有名なハンムラビ法典も彼によって作られた。

かつてシュメールとアッカドが群雄割拠したティグリス川とユーフラテス川の下流域は、以降「バビロニア」と呼ばれる重要都市となる。 やがてバニロニア(地名)は、鉄製武器を持ったヒッタイト王国に一時占領され、当時弱体化していた第一王朝はとどめを刺される結果となった。

その後の政治的混乱を経て、カッシート人の王朝(バビロン第3王朝)が台頭した。 カッシートの王朝はバビロニアの王朝としては最も長く約400年続き、エジプト、ヒッタイト、ミタンニ等と並ぶ強国となった。 しかし強大化してきたアッシリアとの戦いで弱体化し、他の国家(エラム)の侵入も受けて、崩壊へと向かう。

この頃、ユーフラテス川の上流~東地中海沿岸(現イスラエル、シリア、レバノン)には、ヘブライ人、アラム人、フェニキア人がそれぞれ定住していた。

パレスチナに定住(あるいは遊牧生活)していたヘブライ人とは、のちにユダヤ人と呼ばれる人々のこと。 飢饉に遭遇したため、ヘブライ人の一部は豊かなエジプトへ集団移住し、農業生活を営むが、やがて奴隷として使役されることになったため、エジプトを脱出して再びパレスチナへ戻っていた。 ヘブライ人はパレスチナにヘブライ王国を建国した。

アラム人はラクダを用いた隊商貿易を、フェニキア人は優れた航海技術で地中海の海上貿易を行っていた。 (フェニキア人が用いたフェニキア文字が、ギリシアを通じてアルファベットの起源となった。)

紀元前1830年頃
バビロニア第一王朝(古バビロニア王国)がおこる
紀元前1700年頃(?)
ハンムラビ王の時代(?)
紀元前1680年頃
現トルコのクズルウルマック(”赤い河”の意)周辺にヒッタイト古王国がおこる
紀元前16世紀ころ
メソポタミア北部にミタンニ王国が建国される
紀元前1595年頃
ヒッタイト王国がバビロニアを一時占拠
カッシート人(故地はザグロス山脈周辺か?)がバビロニアに王朝を建てる
紀元前17世紀頃? / 紀元前14世紀末?
パレスチナのヘブライ人の一部がエジプトへ移住
(エジプト:前17世紀 = ヒクソス支配時代 / 前14世紀 = 第18王朝) 
紀元前1450年頃~
アッシリアが強大化しはじめる
紀元前1300年~前800年ころ
ユーフラテス川上流にアラム人が多くの都市国家を建設 隊商貿易で活躍
東地中海沿岸にフェニキア人が進出し都市国家を建設 海上貿易で活躍
紀元前1230年頃
エジプトに移住していたヘブライ人がエジプトを脱出
紀元前1157年
バビロン第3王朝(カッシートの王朝)が滅亡
紀元前1000年
ヘブライ人がパレスチナにヘブライ王国を建設

Africa アフリカ

エジプト | 古代オリエント

アブ・シンベル大神殿 By Olaf Tausch投稿者自身による作品, CC 表示 3.0, Link

王朝の南北対立や内乱のあったエジプトを、再び統一したのが第11王朝メンチュヘテプ2世だった。 ピラミッドの建設も復活したが、材料が日干し煉瓦であるなど、かつてのような壮大なものは建造されなかった。 第13~14王朝の時代にふたたび諸侯が各地に分立し、王家の統制力が弱まったところへ、異民族ヒクソスが第15王朝を建てて覇権を確立する。 ヒクソスはパレスチナ方面からやってきたとみられているが出自は定かではなく、以前よりエジプトに定住していたアジア系民族である可能性もある。 この第15王朝はパレスチナもその勢力下に置いていたが、上エジプト(南部)には新たな王朝が成立するなどしていた。 ヒクソスの王朝を破ったのは、上エジプト(南部)のテーベを中心として支配権を握った第18王朝(=17王朝)の王イアフメス1世だった。 以降の王は南北エジプトのみならず、パレスチナ・シリア方面へも進出するようになり、第18王朝6代目トトメス3世の時代には版図が最大となった。

その後もエジプトの繁栄が維持される中、第18王朝10代目アメンホテプ4世は、これまでの多神教を廃止して一神崇拝(世界初の一神教)に改める宗教改革を行い、テーベからアマルナへ遷都した。 これは国内のアメン神官が影響力を増し王家と衝突するようになったことへの対策であったと考えられている。 国内情勢に注力していた間にシリア・パレスチナ地方はヒッタイトの支配下に入った。 後継のツタンカーメンの短い治世の間に、再び多神教へと戻された。 第19王朝のラムセス2世はガディシュの戦いの末にヒッタイトと平和条約を結んだ。 第20王朝時代にも一時的な繁栄期を迎えるが、その後は他国に対する軍事的劣勢が続くこととなる。

紀元前2000~前1800年頃
エジプト:中王国時代(第11・第12王朝)首都はテーベ
紀元前1800~前1570年
エジプト:第2中間期
エジプト:ヒクソスが第15王朝をたてる(紀元前1663~前1555年頃)
紀元前1567~前1070年頃
エジプト:新王国(第18~20王朝)首都はテーベ
エジプト:トトメス3世(前1479~ 前1425年頃)の治世に領土が最大になる
エジプト:アメンホテプ4世/アクエンアテン(前1379~1362年頃)が宗教改革を行う
紀元前1286年頃
エジプト:ガディシュの戦い ラムセス2世 vs ヒッタイト(引き分け)
紀元前1230年頃
エジプトに移住していたヘブライ人がエジプトを脱出しパレスチナに戻る

Europe 欧州

エーゲ海 | 古代ギリシャ

クノッソス宮殿 By Bernard GagnonOwn work, CC BY-SA 3.0, Link

クレタ島の社会は、ギリシャ本土やキクラデス諸島と並行しながら独自の進化を遂げ、 紀元前2000年頃には島内各地に規格化された宮殿の建設を始めるなど「文明」と呼べる規模に発展していた。 クレタ島に築かれたクノッソス王宮は複雑な構造をしており、ギリシア神話に登場する怪物ミノタウルスが幽閉されていた城とも云われている。 文明期の海洋民族(出自は明らかになっていない)は、地中海の海上貿易で栄え、オリエントの文明影響を受け、エジプトとの交流もあった。

紀元前1600年頃には、ペロポネソス半島のミケーネ地方を中心に「ミケーネ文明」が栄えた。 文明の担い手は大陸から南下してきたアカイア人で、単一の王国ではなく小王国を分立した。 クレタを滅ぼしてその海上ルートを引き継いだ。 小アジア(現トルコ)のトロイとも戦争し、兵士を忍ばせた巨大な木馬を敵国の城内に持ち帰らせ、城内から攻撃し勝利した話が有名。 ホメロスの叙事詩に書かれたこのストーリーを信じて発掘を行ったドイツのシュリーマン(1822-1890)が、トロイとミケーネの遺跡を発見した。

やがて鉄器文化を持つドーリア人が南下して、ミケーネを滅ぼし、ペロポネソス半島に定住した。 この混乱期は史料が乏しいため多くは明らかになっていないが、ドーリア人はミケーネ文明の要素を継承したと思われる土器などを遺している。 やがて東方との交流も盛んになり、のちに生まれる集落がアテネやスパルタなど「ポリス」と呼ばれる都市国家へと発展することになる。

紀元前2000年頃
クレタ文明
紀元前1700年頃
大地震
紀元前1628年頃
サントリーニ島(ティーラ島)が爆発的噴火
紀元前1600年頃
ミケーネ文明
紀元前1400年頃
クレタ文明の衰退期
紀元前1300~前1200年頃
ミケーネ文明の最盛期
紀元前1200年頃
トロイ戦争
紀元前1100年頃
ミケーネ文明が滅びる

Asia アジア

インド

カイバル峠 By James Mollison – James Mollison, CC BY-SA 2.5, Link

紀元前1500年頃、中央アジア(現アフガニスタン、バクトリア)からやってきたアーリア人が、北西インド(現パキスタン)に定住する。 彼らはしばしば部族間で争い、また先住民を圧倒した。 やがて牧畜生活から徐々に農耕生活へと移行し、先住民との混血も進んだとみられている。 自然を崇拝し、神々への讃歌と祭式を「ヴェーダ」と呼ばれる書にまとめはじめる。 ヴェーダの神々を祭る司祭をバラモンと呼ぶことから、近世の外国人がこの宗教を「バラモン教(Brahmanism)」と名付けた。

紀元前1500年頃
アーリア人がインド北部に定住
紀元前1200~1000年頃
最古のヴェーダ『リグ・ヴェーダ』が成立
紀元前1000年頃
アーリア人がガンジス川流域に進出、定着

中国

殷墟の婦好墓 By Chris Gyford – en:wikipedia, CC 表示-継承 3.0, Link

中国では乱立する都市国家を「夏」(実在したか不明)が統合して王朝を開いた。 この「夏」を滅ぼしたのが「殷(またの名を商)」と云われており、実在を確認できる最古の王朝とされている。 殷の都跡からは、住居や王墓の跡、青銅器が発見され、甲羅や骨に刻まれた文字は漢字の原型となった(甲骨文字)。 神権政治(祭政一致)が行われていたと考えられている。

現在の西安あたりにおこった「周」という国が、次第に勢力を増して殷を倒す。 周は封建制の社会で、また王と諸侯は本家と分家のような血縁関係にあった。

紀元前2000年紀中頃
殷が成立
紀元前1027年頃
周が殷を滅ぼし都を鎬京に定める

リンク

印欧語族の拡散と文化 By Joshua Jonathan投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, Link