年表ベースでまとめた世界史ノートです。

ヨーロッパ編 / その他編

1477年:ブルゴーニュ公領がフランスに接収される

フランス ブルゴーニュ公国 ハプスブルク家

France in 1477 (outlined in red): Burgundian territories (orange/yellow) after the Burgundian War
☆ By Zigeuner (original), Kaiser Torikka (translation) – Own work. Image renamed from Image:Map France History XVe.svg. Data: # Map “France in the late 15th century”, from Muir’s Historical Atlas: Medieval and Modern, Londres, 1911 (digitized copy at Internet Medieval Sourcebook). # Legend (see below): #*Ibid.; #*Grand Atlas Historique, Éditions du Livre de Paris, Paris, 1968; #*Wikipedia., CC BY-SA 3.0, Link
1477年、ヴァロア=ブルゴーニュ公シャルル(突進公)がナンシーの戦いで戦死し、公爵領がフランスに接収されることになりました。 当時のブルゴーニュ公はフランスのヴァロア王家の分家でしたが、領土を拡大して権力を増すにしたがい、本家との仲が悪くなり、ついに戦争に突入していたのです。

フランスに接収されずに残ったのはネーデルラント(現オランダ・ベルギー)です。 戦死したシャルルの一人娘であるマリーが相続し、ハプスブルク家に嫁ぎました。

ブルゴーニュ公国 とは

Coat of arms (after 1363)
☆ By CarlodangioOwn work, CC BY-SA 4.0, Link
1363年、フランスのヴァロア朝第2代国王ジャン2世が、下の息子フィリップにブルゴーニュ公爵領を与えました。 これがヴァロア=ブルゴーニュ公爵家のはじまりです。

ブルゴーニュ公フィリップは、フランドル伯の長女マグリットとの結婚でフランスの東に広大な領土*1を獲得します。

この結婚をすすめたのはフランス国王のシャルル5世(兄)でした。1337年から英仏百年戦争*2がはじまっており、フランス王家には、フランドルとイングランドが結びつくことを阻止したい狙いがあったのです。

フランドル伯ルイ2世は、明らかにイングランド寄りの姿勢を見せ、同年、エドワード3世は三男ヨーク公エドマンドと、ルイ2世の唯一の後継者マルグリットを結婚させようとした。 シャルル5世はこれを妨害し、弟のフィリップ豪胆公とマルグリットを結婚させた。 ブルゴーニュ公国

*1 領土
フランドルおよびブルゴーニュ伯領。ブルゴーニュ”伯”領は、公爵領の東に隣接する”神聖ローマ帝国”の伯爵領でフランシュ・コンテとも呼ばれる。
*2 英仏百年戦争
カペー朝の男系断絶にともなうフランスの王位継承争い(フランス貴族の内戦)にイングランドが主力参戦。プランタジネット朝イングランド王家にはフランス王位継承を主張しうる理由と因縁があった。
フランス王家との不仲はじまる
“Rene takes the town of Nancy”, by Pierre Jacobi (1519)
☆ By Pierre Jacobi, prêtre et imprimeur depuis 1503 à Saint Nicolas de Port et à Toul. – Gravure tirée de “Liber Nanceidos” (Nacéide) de Pierre de Blarru (1437-1508)., Public Domain, Link

1405年、ブルゴーニュ公2代目のジャン1世(John the Fearless)は、両親の結婚によって併合された広大な領土と財産のほとんどを相続しました。 ブルゴーニュは公爵領というより、もはや独立した国のようにさえなり、ヨーロッパにおいて政治的な発言力も増していました。

父フィリップは政治的に慎重に行動しましたが、息子ジャンは違いました。 ジャン1世は国王シャルル6世が重用した王弟オルレアン公と激しく対立します。 世間はブルゴーニュ派とオルレアン派の2極にわかれて争うことになりました。

この争いを経て結果的にブルゴーニュ公の権力は増すものの、これ以降フランス王家からは完全に敵視されるようになります。

ジャン1世に続く公爵は、フィリップ3世(善良公 Philip the Good)です。 巧みな婚姻政策、買収、相続などにより、ネーデルラント*3を獲得し、公爵家はさらに独立性を高めました。 しかし跡を継いだシャルル(突進公 Charles the Bold)は、息子がないまま戦死*4してしまいます。 男系が途絶えたことで、フランス国王ルイ11世は「公爵家は断絶した」と宣言し、公爵の称号と領土を接収*5しました。 こうしてブルゴーニュ公爵領 / 公国 は解体することになったのです。

*3 ネーデルラント
現在のオランダ・ベルギーに相当する地域。
*4 戦死
ブルゴーニュ公と宗家のフランス王の間で戦われた一連の戦争の最後「ナンシーの戦い(1477年)」にて。
*5 公爵領を接収
小競り合いと協定を経て、結果的におおむね1363年当初のブルゴーニュ公爵領とフランス北部の County of Artois を接収。くわしくは動画を参照。

タイトル:Rise and Fall of Burgundy
公開者:Ollie Bye

個人的メモ:ブルゴーニュ”伯”領は、婚姻によって14世初頭からカペー=ブルゴーニュ公の支配下にあったが、カペー家の男子断絶にともなって”公”領はフランスに接収。”伯”領はダンピエール家に渡るが、ここに生まれたマルグリットがヴァロア=ブルゴーニュ公と結婚し再びブルゴーニュ公支配下におかれる。

その後のはなし…
ハプスブルク=スペインにつながる重要人物ブルゴーニュ女公マリー

Cross of Burgundy Flag / Flag of Spanish Empire
☆ By Ningyou. – Own work, CC BY-SA 3.0, Link
それでもシャルル突進公のひとり娘マリーは、ブルゴーニュ女公(フランスの公爵位)を名乗り続け、この主張は子孫にも引き継がれました。 またネーデルラントについては、女性に相続権のなかった領土を含んでいたため諸問題を抱えることになるものの、結果的には相続します。

マリーはハプスブルク家のマクシミリアン(のちの神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世)に嫁いでいました。 このため、マリーが相続した地域はこののち、ハプスブルク家の支配下に入ります。

さらにマリーの息子フィリップ美公は、スペイン王国の王女と結婚し、王女に王位継承権が転がり込んだことから、スペイン国王(王配*6)となります(1506)。 孫はスペイン国王にして神聖ローマ皇帝のカール5世(生没1500 – 1558)です。 スペイン=ハプスブルクの誕生は、フランスにとって大きな脅威となりました。

*6 王配
一般に女王又は女帝の配偶者に与えられる称号。王婿とも言う。英語では prince consort、または king consortという。

Duchy of Burgundy

空想の旅に出かける
地図ブルゴーニュ公爵領(ヴァロア朝フランス王国)
1363年、フランス国王シャルル5世(賢明王)は、弟のフィリップをブルゴーニュ公に封じた(豪胆公/ル・アルディ)。
地図ブルゴーニュ伯爵領 / フランシュ・コンテ(神聖ローマ帝国)
ブルゴーニュ伯領は神聖ローマ帝国の領域内にあったが、14世紀末にブルゴーニュ公国に組み入れられた後、16世紀から17世紀にかけてはスペイン・ハプスブルク家が支配した。
地図フランドル / フランデレン 伯爵領(神聖ローマ帝国)
1369年6月13日、ブルゴーニュ公フィリップ2世と、ブルゴーニュ女伯・フランドル女伯マルグリット3世の結婚により、広大な同君連合が成立した。
リンク外部リンク集
参考資料・動画・旅行記・写真集などへのリンク集

ブルゴーニュ国家の形成と変容
著者/監督:藤井美男/ブルゴーニュ公国史研究会

出版社/発売元:九州大学出版会
発売日:2016年03月

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紋章Coats of Arms
Philippe the Good and Charles the Bold, as dukes of Burgundy