14世紀・15世紀のオランダ - 領邦の支配者の変遷 - 年表式

9世紀のヘルルフ2世に始まるホラント家(1083年ディルク5世より伯家)は、ケネメルラントから勢力圏を広げオランダ中央部のデルタ地帯とゼーラント地方も支配下に収めますが、13世紀末にフロリス5世の暗殺と息子の早世によって断絶しました。

ホラントの伯位と領土は、フロリス5世の父方の叔母が嫁いでいたエノー伯家(基盤:現ベルギー南部~フランス北部)に渡りましたが、14世紀半ばに同家の断絶によって、女系嫁ぎ先のドイツ・バイエルン公家(基盤:バイエルン~ザルツブルグ~チロル地方)へ、そして15世紀前半にはエノー伯領とともにフランス・ブルゴーニュ公国(基盤:現フランス南東部)に併合されます。

一方でヘルレ伯は14世紀に皇帝にから「侯」の称号を授かり、その領土は「侯領」となりました。この頃から侯位の継承を巡って争いが起き、ヘルレ継承戦争を経てドイツのユーリヒ家、断絶を受けてエフモント家が相続しますが内紛は続き、ブルゴーニュ公国の介入を受けて一時的にその支配下に置かれます。

ブルゴーニュ公国(ヴァロア=ブルゴーニュ)はフランス王家の分家として14世紀に始まりました。巧みな婚姻政策、買収、相続などにより、北部を除く低地地方の大部分を獲得しました。しかし本国フランスとは敵対関係となり、シャルル突進公の戦死を受けて一人娘のマリーが領土を相続する際、本来のブルゴーニュ領はフランスに接収されました。

低地地方のみを相続した女公マリーは、ハプスブルク家のマクシミリアン王子(のちの1世)との結婚が決まっており、一帯はハプスブルク家の支配下に入ることになります。

以下の年表では「ホラントの支配者の変遷」を項目名にして見出しを設けました。年表を字引的に使うときに探しやすくするのが目的です。

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ホラントがエノー家支配下にあった時代

Door Ipankonin - Modified from , Wapen van het huis Avesnes (graven van Henegouwen) / CC BY-SA 3.0, Koppeling

1299年:エノー伯家がホラント伯領+ゼーラント伯領を相続

フロリス5世の息子ヤンが伯位を継ぐが、病弱だったため14歳で没した。他に男子の相続人がなく、ホラント伯家では女子には相続が認められていなかったため、フロリス5世の父ウィレム2世の妹が嫁いでいたエノー伯家(Count of Hainaut)のジャンに伯位が転がり込んだ。(エノーは現ベルギー南部からフランス北部にまたがるフランス語圏の地方。)

英仏 1337年:英仏百年戦争が始まる

フランス王国の王位継承およびイングランド王家がフランスに有する広大な領土をめぐり、フランス王国を治めるヴァロワ朝と、イングランド王国を治めるプランタジネット朝およびランカスター朝というフランス人王朝同士の争いに、フランスの領主たちが二派に分かれて戦った内戦である。国家という概念は薄い時代であり、封建諸侯の領地争いが重なったものであったが、戦争を経て次第に国家・国民としてのアイデンティティーが形成されるに至った。現在のフランスとイギリスの国境線が決定した戦争でもある。百年戦争は19世紀初期にフランスで用いられるようになった呼称で、イギリスでも19世紀後半に慣用されるようになった。

Wikipedia(2019-5-26)

1334年:エノー伯ギョーム2世とブラバント侯の娘ヨハンナの結婚

二人の間に男子が生まれるが幼くして死亡。

1339年:ヘルレ伯がヘルレ侯に昇格

神聖ローマ帝国皇帝によって侯国に格上げされる。

1343年:ヘルレ侯の摂政職を巡る争い

初代ヘルレ侯の継承者が未成年であったため、摂政職を巡ってヘーケレン卿とブロンクホルスト卿の家門が摂政職を巡って介入。

ホラントがバイエルン家支配下にあった時代

Wapen van het huis Wittelsbach (hertogen van Beieren) / Door Ipankonin - Modified from , CC BY-SA 3.0, Koppeling

1345年:バイエルン公家がホラント伯領を相続

エノー伯ギョーム2世( ホラント・ゼーラント伯としてはウィレム4世)がフリースラント遠征で戦死した。彼は子供を残さなかったので、伯位は、ギョーム2世の妹マルグリットが継ぐことになった。彼女はすでにバイエルン公家(のドイツ王ルートヴィヒ4世)に嫁いでいた。

エノー伯位は女子にも相続が認められていたが、ホラント(およびゼーラント)伯位については男子のみに相続が認められていた。このため、ホラント伯位はマルグリットとルードヴィヒ4世の次男ウィルヘルムが継ぐことを建前とした。ウィルヘルムが成人するまで、マグリットが知行地として預かるという形がとられたが、実質的にはマグリットが相続したようなものとなった。(⇒1350:鱈派と釣針派の抗争)

1347年-51年:欧州でペスト(黒死病)の大流行

14世紀の大流行は中国大陸で発生し、中国の人口を半分に減少させる猛威を振るったのち、1347年10月(1346年とも)、中央アジアからイタリアのシチリア島のメッシーナに上陸した。ヨーロッパに運ばれた毛皮についていたノミが媒介したとされる。流行の中心地だったイタリア北部では住民がほとんど全滅した[3]。1348年にはアルプス以北のヨーロッパにも伝わり、14世紀末まで3回の大流行と多くの小流行を繰り返し、猛威を振るった。ヨーロッパの社会、特に農奴不足が続いていた荘園制に大きな影響を及ぼした。

Wikipedia(2019-05-26)
Citizens of Tournai bury plague victims / By Pierart dou Tielt (fl. 1340-1360) - http://balat.kikirpa.be/photo.php?path=X004175&objnr=20049662, Public Domain, Link

1350年頃ー:小氷期

農業の不作

1350年:鱈派と釣針派の抗争1(バイエルン家のマグリット VS 次男ウィルヘルム)

バイエルン家に嫁いでいたマルグリットの次男ウィルヘルムがホラント伯領を継ぐ(=ウィレム5世)こととなったが、実権は母が握っていたため、母子の争いとなった。鱈派と釣針派を名乗る集団が現れ(参考⇒タラと釣り針)、この母子については次のように支持層がわかれた。

鱈派:次男ウィルヘルムを支持

釣針派:マグリットを支持「鱈派」は一部の貴族と先進的な都市民で構成され、「釣針派」は主に保守的な貴族で構成されていたらしい。マルグリットの妹を妃に迎えていたイングランド王エドワード3世は、マグリットを援護し1351年のフェーレ沖の海戦に勝利するが、 続くヴラールディンゲンの戦いでウィリアムと鱈派に敗れる。1354年にマルグリットは権限をウィルヘルムに譲り、彼女が死去した後にはエノー伯領もウィルヘルムが相続した。

1355年:ブラバント候ヤン3世の死去に伴うヨハンナの相続

ブラバント侯ヤン(ジャン)3世に息子がなかったため娘のヨハンナ(ジャンヌ)が跡を継いだ。ヨハンナが最初の結婚で嫁いだエノー伯ギョーム2世(ホラント伯ウィレム4世)はすでに亡く、彼女はルクセンブルク公ヴェンツェル1世と再婚していた。

ブラバントの諸都市は、都市の交易と工業に有利な憲章(Blijde Inkomst)を作成し、ヨハンナとヴェンツェル1世に届けた。都市の重要性が増し、君主が税収を都市の富に依存する時代だった。ヨハンナの死後、ブラバント候爵位は、彼女の姪にあたるフランドル女伯の息子アントワーヌに継承された。

1358年:バイエルン家のアルブレヒトが実質的な支配者になる

ウィルヘルム(ホラント伯ウィレム5世)が精神障害のため幽閉され、弟のアルブレヒトがホラント伯領の実質的な支配者となる。

仏 1363年:ブルゴーニュ公国の成立

フランス王家の分家としてフランス東部にブルゴーニュ公国が創設された。当時のフランス王が息子のフィリップ(豪胆公)に公領を与えたことが始まり。

1396年にフィリップ豪胆公が結婚したフランドルのマルハレータは、フランシュ・コンテ(ブルゴーニュの別の伯領)の相続人だったので、義父の死去に際して、フィリップ豪胆公はこれらの地域も支配下に置いた。このときからブルゴーニュ公家はフランス王家からほぼ独立し、また対立した。

1356年:金印勅書

⇒金印勅書が中世ドイツ史に与えた影響

1387年:ウェンデスヘイム修道会の設立(新しい信心)

世俗の世界にありながら修道士のような敬虔な祈りをささげ労働に勤しむ真面目な生活スタイルを、デーフェンテルの市民ヘールト・フローテが説き(1384)、おおきな広がりをみせ、修道会が設立された。

「新しい信心」と呼ばれるこの運動は、後に起こる宗教改革の指導者に影響は与えるものの、カトリック教会の枠組み内でその浄化を図るものだった。 富裕な市民に訴えるものであり「教育」が伝道の主な手段となって効果をあげた。やがて富裕層以外にも「新しい信心」を広げるため、都市では学校の数が増え、冊子の数が増え、おそらくは識字率の向上にもつながった。

1395年にはローマ教皇からも認可された。 ケルン産まれのトマス・ア・ケンピスが著した信心書『キリストに倣いて』は、聖書に次いで最も読まれた本であるとさえ言われており、西ヨーロッパのキリスト教社会に大きな影響を与えた。 1466年生まれのエラスムスもこの教団で学ぶ(⇒1466年:エラスムスが生まれる)。(⇒1527年に宗教改革の影響で解散

1407年頃:排水用風車の登場

フランス、ドイツから伝えられたという風車の技術は、当初は製粉に使われていたが、オランダの人々はこれを排水にも利用。泥炭地に普及した。

1417年:鱈派と釣針派の抗争2(バイエルン公家の娘ヤコバ VS ブルゴーニュ公家のフィリップ)

バイエルン公アルブレヒト1世の息子ウィルヘルムがホラント伯位も継承ししたが、1417年に一人娘ヤコバを残して死去した。残されたヤコバと、ヤコバの叔父(ウィルヘルムの弟)ヤンが、相続権を主張して争うこととなった。

鱈派:ヤンを支持、ヤンが亡くなったあとは、ブルゴーニュ公家のフィリップ(善良公)を支持

釣針派:ヤコバを支持ローマ教皇や、皇帝、ほかの領邦も介入した。(⇒1426年:Brouwershaven の戦いでヤコバが破れる)ブルゴーニュ公家のフィリップ(後の3世)は、フィリップ豪胆公の孫にあたる。

仏 1419年:ブルゴーニュ公位がフィリップに継承される

ブルゴーニュ公フィリップ3世(善良公)

1421年:聖エリザベートの日の大洪水

11月18日の夜から翌19日の朝にかけて北海の海岸を襲った激しい嵐によって、各地で堤防が壊れ、低地の干拓地が浸水した。いくつもの村が洪水に呑まれて、失われた。死傷者は2,000~10,000人に達し、ホラントとゼーラントが荒廃した。(⇒ List of settlements lost to floods in the Netherlands 

1426年:Brouwershaven の戦いでヤコバが破れる

( ⇒1428年:デルフトの和解

1428年:デルフトの和解

ヤコバはエノー伯とホラント伯の称号を継ぐことは認められたものの、実権はフィリップが握った。ヤコバ亡き後は両伯位をフィリップが相続すること、子のいなかったヤコバは再婚する場合にはフィリップの承諾を要することなどが決められた。

1430年:ブラバント侯国がブルゴーニュ公国に併合される

ブルゴーニュ公フィリップ3世の2人の従弟が子をもたないまま亡くなったため、ブラバント侯国(現ベルギー北部)がフィリップ3世の領有に帰し、彼は低地地方(ネーデルラント)に軸足を移した。

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ホラントがブルゴーニュ家支配下にあった時代

Wapen van het huis Valois (hertogen van Bourgondië) / Door Ipankonin - SVG elements from Supersedes PNG image , CC BY-SA 3.0, Koppeling

1432年:ホラントおよびゼーラントがブルゴーニュ家の支配下に

1428年:デルフトの和解⇒)1432年にヤコバが再婚したため、この時点で領土はブルゴーニュ公フィリップ3世が継承した。こうしてホラント、ゼーラント伯領はブルゴーニュ家の支配下に入ることとなった。(ヘルレ侯領、フリースラント、フローニンゲンは独立を保つ。)

15世紀のネーデルラント

ニシン産業の成立

ニシンの塩漬け法が発明され船上で保存できるようになったことから、ニシン産業が成長した。

ホラントの経済繁栄

ホラントの諸都市がバルト海交易に進出し始めるが、これらの都市の大部分はハンザ同盟に参加したことがなかったため、この同盟の保護主義的な規則に煩わされることなく、Amsterdam や Hoorn、Enkhuizen などが大いに繁栄した。工業も引き続き発展し、Leiden、Haarlem の工場ではイングランド産の羊毛から毛織物が製造され、 Delft、Gouda、Haarlem、Amersfoortでは大量のビールが醸造され輸出もされた。

いまやネーデルラント北部の経済を主導しているホラントは、 支配者(ホラント伯位の継承者)にとって重要な税収源となり、 その諸都市は支配者に対して発言力を増し、自由と自治の拡大を求めるようになる。

諸都市はまた、諸都市みずからの経済的利益を保護したいがために、農村地帯でのある種の工業を禁じることも求めた。 これによって都市は一層発展することになるが、農業地帯から工業都市へ、相当数のプロレタリアート(無産階級/労働者階級)が流れ込むことにもなった。

ルネサンスと人文主義と宗教

ルネサンスは「再生」「復活」を意味するフランス語であり、一義的には、古典古代(ギリシア、ローマ)の文化を復興しようとする文化運動であり、 14世紀にイタリアで始まり、やがて西欧各国に広まった(文化運動としてのルネサンス)。 また、これらの時代(14世紀 – 16世紀)を指すこともある(時代区分としてのルネサンス)。 (中略) 一般に、15世紀末から16世紀には、程度の差はあるが、ルネサンスの文化はアルプス以北の西欧や一部東欧諸国にも波及したと考えられている(北方ルネサンス)。

Wikipedia(2019-05-29)

16世紀に起こる宗教改革への影響

(宗教改革を)人文主義者による聖書研究が進んだために起こった「原始キリスト教精神に帰るルネサンス的運動」としてつかむ立場もある。 すなわち、同じルネサンス的運動が、イタリアにおいては、ギリシア・ローマの古典文化への復帰として表れ、 ドイツにおいては、聖書への復帰と言う形で現れたとする考え方である。 特にアルプス以北の諸国において、ルネサンスの一部である人文主義の研究は、宗教上のものと結びつきやすかったとされる。 宗教改革の指導者の幾人かはもともと人文主義者であったことからも、この両者の結びつきは深いことがわかる。 ただし、宗教改革が激化するにつれ、特にルター派の宗教改革と人文主義は袂を分かつようになっていった。

Wikipedia(2019-05-29)

1453年:コンスタンティノープル陥落、東ローマ帝国滅亡

5月29日、オスマン帝国のメフメト2世によって東ローマ帝国の首都コンスタンティノープル(現イスタンブール)が陥落した事件である。この事件により東ローマ帝国は滅亡した。

Wikipedia(2019-05-26)

1455年:ユトレヒト司教領が実質的にブルゴーニュ公の支配下に

ブルゴーニュ公フィリップ3世が権力を拡大する目的で、非嫡出子の David をユトレヒト司教に任じ、実質的に支配下に置いた。

1456-1483年:鱈派と釣針派の抗争3(ユトレヒト司教領 VS ブルゴーニュ公フィリップ)

1455年:ユトレヒト司教領が実質的にブルゴーニュ公の支配下に⇒)これを機にユトレヒトで釣針派が再結成され、フィリップを支持する鱈派との内戦に発展した。詳細⇒ Siege of Deventer (1456)First Utrecht Civil WarSecond Utrecht Civil WarSiege of Utrecht (1483)

1464年:ブルッヘで「全国身分制議会」が開かれる

ネーデルラントで開かれた初めての身分制議会。ブルゴーニュ公フィリップ3世(善良公)が十字軍に赴くことを財政的に認めるかどうかを決定するため一堂に会した。

身分制議会(みぶんせいぎかい)とは、中世から近世にかけてヨーロッパに存在した議会のこと。近代以降の議会とは異なり、参加者は諸侯、聖職者、及び都市の代表などの特権身分層に限定され、これ以外の者の参加は許されなかった。

Wikipedia(2019-05-29)

1466年:エラスムスが生まれる

エラスムスはロッテルダム出身の人文主義者。人文主義者とはルネサンス期において、ギリシア・ローマの古典文芸や聖書原典の研究を元に、神や人間の本質を考察した知識人のこと。エラスムスは文献に基づく確かな知識を大切にすることを主張し、寛容と平和を信じ、純粋で真面目な宗教を唱えた。カトリック教会の運営上また道徳上の慣習を批判し(⇒1511年:エラスムス著「痴愚神礼讃」の発行)、後の宗教改革に結びつく要素も見られるが、彼自信はカトリック教会の枠組みの中でこれを行い、キリスト教徒の分裂を招くルターには批判的だった。

1467年:シャルル突進候がブルゴーニュ公を継承

フィリップ3世が没し、シャルルがブルゴーニュ公位を継承。シャルル突進候は中央集権政策を進めて各地の反発を招いた。支配域はブルゴーニュ公の本領、ブルゴーニュ伯領(現フランス東部)、リエージュ司教領(現ベルギー)、ネーデルラント(フリースラントとヘルレ侯領を除く)に及んだ。

1477年(1月):シャルル突進候が戦没

(シャルル突進候は)国内の独立貴族を連合してフランス国王ルイ11世に対抗する公益同盟を結成して、3度戦いその都度フランス王軍を圧倒した。1473年には周囲のロレーヌ・ピカルディを攻略し、要塞を引き渡させ、自由通行を認めさせた。しかし1476年、フランス王に雇われたスイス傭兵にグランソン、ムルテンで破られ、さらにロレーヌ公ルネ2世と交戦中にナンシーの戦いで戦死した。

Wikipedia(2019-05-26)

1477年:ブルゴーニュ公国が消滅

シャルル突進候には男子がおらず、一人娘のマリーがブルゴーニュ女公として公位を継承。しかしこの時、本来のブルゴーニュ公領がフランスに接収された。マリーは主にネーデルラント(低地地方)のみを相続することになる。

1477年(2月):マリーがホラント・ゼーラントに「大特権」を認める

マリーの公位継承をうけて、ネーデルラントでは全国身分制議会が開かれ「マリーを女公/侯と認める代わりに、先代のシャルル突進候が進めた中央集権的な政策を辞めること」を求め、各地の伝統や風習を復活させた。このとき、ホラントとゼーラントは「大特権」を認めさせ、大幅な自由と自治を獲得した。

大特権:全国身分制議会は国王の命によらず自ら望む時に会合できること。君主が同会議の許可なく戦争を始めないこと。中央集権の道具であるメヘレン高等法院と全国会計院の廃止、など。

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ホラントがハプスブルク家支配下にあった時代

Coat of arms of the Habsburg house (Philip the Fair and successors) / Door OSeveno, making grateful use of creations by Heralder and by Erlenmeyer - Eigen werk, build on: File:Arms of Charles II of Spain (1668-1700).svg and File:Arms of Archduke Charles of Austria as Spanish Royal Pretender.svg and File:Torre heráldica.svg, CC BY-SA 3.0, Koppeling

1477年(8月):低地地方がハプスブルグ家支配下に ネーデルラントを継承したブルゴーニュ女公マリーが、ハプスブルク家のマクシミリアン(後のドイツ王、神聖ローマ帝国皇帝)と結婚し、ネーデルラントがハプスブルク家の支配下に入る。

1482-1490年:鱈派と釣針派の抗争4(Frans van Brederode vs Maximilian of Austria)

(ブルゴーニュ女公マリーは)第4子を懐妊中の1482年3月、落馬事故で流産した上に大怪我を負い、それが原因で3週間後に死去する。その際、「フィリップとマルグリット2人を公国の相続人に指定し、嫡男フィリップが15歳に達するまで夫マクシミリアンをその後見人とする」という遺言状を書き、家臣へ夫マクシミリアンに仕えるように言い残すが、彼女の意志は守られずブルゴーニュ公国は再び内乱の渦に巻き込まれた。

Wikipedia(2019-05-26)

Frans van Brederode 率いる釣針派が、マクシミリアン1世に反乱を起こすが、1490年の戦いで敗れた。Frans van Brederode は戦傷が元で獄中にて死亡。ブルゴーニュ領ネーデルラントは、マリーの嫡男フィリップがブルゴーニュ公フィリップ4世として継承し(当時3-4歳)、マリーの夫マクシミリアンが摂政となる。

独 1483年:マルティン・ルターが生まれる

(ルターは)1517年に『95ヶ条の論題』をヴィッテンベルクの教会に掲出したことを発端に、ローマ・カトリック教会から分離しプロテスタントが誕生した宗教改革の中心人物である。(中略)鉱山業に従事していた父ハンス・ルダーと母マルガレータの次男として、ドイツのザクセン地方の小村アイスレーベンで生まれた。Wikipedia

1494年:ブルゴーニュ公フィリップ4世が成人

父マクシミリアンによる摂政時代が終わる。

1496年:ブルゴーニュ公フィリップ4世がスペイン国王の次女フアナと結婚

スペインのカトリック両王(=アラゴン王フェルナンド2世とカスティーリャ女王イザベル1世)の次女フアナと、ブルゴーニュ公フィリップ4世が結婚。(フィリップの妹マルグリットはフアナの兄ファンと結婚。)

1500年:長子カール(後のスペイン国王カルロス1世)の誕生

ブルゴーニュ公フィリップ4世と、スペイン国王の次女フアナの間にカールが生まれる。出生地は現ベルギーのヘント。17歳までネーデルラントで育つ。


参考資料

書籍:
図説オランダの歴史 (ふくろうの本) [ 佐藤弘幸(オランダ史) ]
オランダ小史 先史時代から今日まで [ ペーター・J・リートベルゲン ]
A short history of the NetherlandsA short history of Amsterdam
神聖ローマ帝国 (講談社現代新書) [ 菊池 良生 ]

Web:St. Elizabeth's flood (1421)ハイパー世界史用語集 APPENDIX LIST 章節別エノー伯Hook and Cod warsJoanna, Duchess of Brabantアルブレヒト1世 (バイエルン公)Philip the Goodマリー・ド・ブルゴーニュEstates of the realm (身分制議会)デジデリウス・エラスムス西欧諸国のルネサンスFriso-Hollandic Wars