オランダはヨーロッパ大陸の北端に位置し、南にベルギー、東にドイツと国境を接しています。海を挟んで西にはイギリスがあります。

このページでは先史時代から現代まで、いまオランダが位置する場所で起こった重要なイベントだけを追った簡単な通史をまとめました。オランダ旅行中にサッとひいて思い出すことが目的です。

趣旨:オランダ観光を楽しむためのカンタンな通史

オランダを旅行しているとローマ時代にさかのぼる遺跡の一部や発掘品も目にします。観光スポットのパンフレットには、「ローマ支配時代に…」とか「ブルゴーニュ侯時代から…」「八十年戦争において…」「フランス併合時代は…」と書かれていることもあります。

オランダやヨーロッパの人にとっては常識かもしれないイベントも、遠いアジアから来たわたしには当初「それ、いつ?」状態でした。

ということで、旅のおともとして持ち歩けるよう、先史時代~現代までを通史と年表をまとめたものが以下になります。

オランダの歴史

※おおよその位置を示す目的で現在の国名を用いる場合には、国名の前に「現」と付しています。また、現在のオランダ・ベルギー・ルクセンブルクが位置しているあたりは、土地が低いので『低地地方(ネーデルラント)』とも呼ばれます。

先史

フリースラントに残るテルプ Door Rijksdienst voor het Cultureel Erfgoed, CC BY-SA 4.0, Koppeling
紀元前1万年頃:最後の氷河期終わる

ネーデルラントに狩猟採集民が住み始めます。沿岸は湿地帯なので住める場所はかぎられていました。

紀元前7000年頃から農耕牧畜をおこなう人々が現れました。

紀元前1900年頃:青銅器時代

地域を超えた交易の跡がみられるようになります。

埋葬品の特徴から、現オランダ南部にケルト系、北部にゲルマン系が住んでいたといわれています。

紀元前750年頃:鉄器時代

現オランダ北部の泥土に丘を作って住む人々があらわれました。それは満潮になると海に小さな島が浮かんでいるような光景だったといいます。

古代

Door Vincent van Zeijst – Eigen werk, CC BY-SA 3.0, Koppeling
紀元前57年~406年頃:ローマ支配期

ローマ帝国の支配域の北の限界が現オランダです。南部はローマ帝国の属州になりましたが、北部に住むゲルマン民族は制圧されませんでした。

中世

バルバロッサ遺跡@ナイメーヘン
481~650年頃:メロヴィング朝フランク王国

400年頃ローマ帝国が衰退します。ついにネーデルラントから総督もいなくなり、各町の防衛力がなくなりました。さっそく北と東からゲルマン民族(サクソン人・フリース人・フランク人)が大挙して押し寄せました。

そのゲルマン民族のひとりクローヴィスがベルギー南部を中心に王国を建てます。フランク王国です。支配域はどんどん拡大して現オランダ~現フランスまでおよびました。

フランク王国の王はローマ人の統治の方法をまねて、キリスト教も積極的に取り入れました。

650~850年頃:カロリング帝国

メロヴィング朝の重臣が玉座をじわりじわりと乗っ取ってカロリング朝フランク王国がはじまりました。

フランク王国の最大版図を築いたのがカール大帝(742 – 814)です。

フランク王国には領土を兄弟で分割して相続する習わしがありました。カール大帝の孫の代で、兄弟間の領土の奪い合いの戦争になります。870年のメルセン条約で、現在のイタリア・ドイツ・フランスの原形がつくられました。

962年:神聖ローマ帝国 / 領邦国家の発展

オランダを含む低地地方(ネーデルラント)は、ドイツ王国(神聖ローマ帝国)の一部になりました。

ネーデルラントの各領主はフランク王国時代から権力基盤を築いていましたが、思い思いに少しずつに勢力圏を広げてゆきました。

ネーデルラント北部(現オランダ)ではざっくり『ホラント伯領:西部』『ユトレヒト司教領:中央+』『ヘルレ伯領:東部』『ブラバント侯領:南部』そして『フリースラント:北部』がしのぎをけずっていました。

1200年頃~:都市の発展

交易を通じて町が発展しました。領主にとって重要な資金源となるにつれて町は発言力を増し、自治権を獲得して都市になりました。君主の継承問題に口を挟むことさえありました。これは戦争になれば交易が阻まれて商売あがったりになってしまうからです。

1432年:ホラントがブルゴーニュ家支配下に

ホラント伯家の男子の断絶によって伯位と領土が親戚を転々としました。内紛を経てホラント伯位はブルゴーニュ侯爵のもとに落ち着きます。

ブルゴーニュ侯国はフランス王家の分家として14世紀に創設されたのが始まりでした。巧みな婚姻政策、買収、相続などにより、ホラント伯領のみならず、ネーデルラントの大部分を獲得しました。

しかしまもなくブルゴーニュ侯はフランス本国と仲たがいし、元来の土地がフランスに接収されます。ブルゴーニュ侯の領土はほぼネーデルラントだけになりました。

1477年:ホラントがハプスブルグ家支配下に

ブルゴーニュ侯爵が亡くなると、ひとりむすめのマリーが女侯となって、ネーデルラントの広大な領土を相続しました。彼女はすでにハプスブルク家に嫁いでいました。

こうしてネーデルラントはハプスブルク家(オーストリア)の支配下に入るのですが、男子にしか相続権のなかったはずのホラント伯領も含んでいたため、条件が付されました。諸都市が女侯マリーと交渉し、相続を認めるかわりとして大特権(大幅な自治権)を獲得したのです。

中近世

17世紀築ルネサンス様式の市庁舎:デルフトのマルクト広場
1504年~:ハプスブルク家がスペイン国王に即位

ネーデルラントを相続したハプスブルク家の男子がスペインの王女と結婚しました。そこにおもいがけず、王女にスペイン王位継承権が巡ってきました。王女が女王に即位したため、ネーデルラントを継承している夫がスペイン国王になりました(!)

この2人から生まれた息子が、スペイン国王カルロス1世=神聖ローマ皇帝カール5世です。両親から相続した領土は、スペインとネーデルラントとオーストリア+α という広大なエリアにおよびました。

こうなると敵は真ん中のフランスです。カール5世は戦いに明け暮れました。疲れて引退すると、息子フェリペ2世が戦争を引き継ぎました。かさむ戦費をまかなうためにネーデルラントの税金があがりました。

カール5世はフランドル(現ベルギー北部)で生まれ育ちましたが、フェリペ2世はスペイン育ちのためネーデルラントには愛がなかったようです。

1568 – 1648年:八十年戦争を経てネーデルラント連邦共和国が独立

ネーデルラントの貴族オランイェ公ウィレム1世が、スペイン国王フェリペ2世の圧政に対して反乱を主導しました。これが80年もつづく戦争に発展し、結果として『ネーデルラント連邦共和国』として独立するにいたりました。すこしだけ詳しく書きます。

反乱の理由

ヨーロッパは宗教改革で大混乱の時代。ネーデルラントでもプロテスタントが勢いを増しはじめていました。いっぽうでスペイン国王は、支配域をローマカトリックで統一しておきたいと思っていました。(ネーデルラントには当初、様子見で態度を保留する中央派も大勢いました。)

スペイン国王はプロテスタントの弾圧にのりだしました。異端審問所をもうけ、身分を問わず多くの貴族や民衆を処刑しました。

国王はさらに監視強化のため司教区を再編し、重役にはスペイン人を据えました。このためネーデルラントの中小貴族が権益をうばわれました。

都市の税金はスペインを肥やすために使われ(ているように見え)ました。

ブルゴーニュ女侯マリーの代に得ていた都市の特権が無視されました。

アラス同盟とユトレヒト同盟(1579)

ネーデルラントの反乱をうけて一度は退いたスペイン側でしたが巻き返しをはかります。ネーデルラント南部の諸州と諸都市をスペイン側にとりこんだのです。

南部はカトリックを維持してスペインに忠誠を誓うアラス同盟を結成しました。これに負けじと北部諸州はプロテスタントを支持するユトレヒト同盟を結成します。なんとなく、今日のオランダとベルギーの原型です、あくまでも、なんとなく。

スペイン国王廃位令(1581)

オランイェ公ウィレム1世を筆頭に、ユトレヒト同盟国の貴族がスペイン国王フェリペ2世に忠誠を誓わない旨を堂々発表(!)しました。

ただしこの時点では「独立」の意図はありませんでした。実はフランスやイギリスの国王や女王に統治権を委ねようとして断られたりするのです。手に余ると思われたんでしょうか…断られた理由はわからないそうです。

そんななか、オランイェ公ウィレムはスペイン国王から懸賞金をかけられ、デルフトで暗殺されました(1584)。

休戦(1609-1621)

オランイェ公ウィレム亡きあとも戦争は続き、子孫が跡を継いで指揮をとりました。戦争の継続には同盟国内でも賛否両論ありひと悶着おきましたが、12年の休戦を挟んで戦争が再開され、ついに独立にいたります。

八十年戦争終わる オランダ独立(1648)

戦争のあいだにスペイン側とオランダ側の都市が互いにとったりとられたりしました。終戦の時点で得ていた領土がネーデルラント連邦共和国となったので、元スペイン側だった都市は自由と自治権がおおはばに制限されました。

フェルメールやレンブラントなどがこの時代の画家です。オランダ人は船を作ってアジアへ繰り出し、経済的な成功をおさめ、黄金時代といわれる17世紀をむかえていました。日本の平戸に、続いて出島に、商館を建てたのもこの頃です。

1648 – 1795年:ネーデルラント連邦共和国

フランス(ブルボン王朝)が領土拡大を図って、口実をみつけてはオランダに侵攻をくりかえしました。オランダがピンチの度にオランイェ家のリーダー性が民衆から求められました。期待に応えて活躍したオランイェ公もいれば、あっけなく早世した公、無為無策で役にたたなかった公もいました。

いっぽうで都市貴族(商売で成功した大富豪)が政治を牛知って私腹をこやしているとして、ここにも民衆の不満は高まってゆきました。

やがて、フランスの啓蒙主義に影響をうけた人々が愛国者運動をはじめます。

近世

The Valkhof Castle by Hendrik Hoogers , 1794, shortly before the demolition
1795年:バターフ共和国(仏傀儡国)成立

1789年、フランスで革命が勃発しました。勝利したフランス革命軍はオランダにも侵攻し、オランイェ公ウィレム5世はイギリスに亡命しました。

無政府状態のオランダで愛国者運動派が臨時代表部をもうけて、フランスと(フランスに有利な)同盟を結び、オランダの地にバターフ共和国を樹立しました。

1806年:ホラント王国(仏傀儡国)成立

フランス革命支持派の中でも抜きんでた軍事力をみせたナポレオンが、1804年にフランス皇帝に即位します。皇帝はバターフ共和国を廃して、弟のルイ・ボナパルトを国王とするホラント王国をたてました。

1810年:フランス併合時代 オランダ人の不満高まる

ナポレオンがホラント王国を廃して、フランスに併合しました。アムステルダムはフランス帝国の第三の首都になりました。

イギリスとの通商を阻止するために、オランダ地方にも「大陸封鎖令」が課されました。これによって海外貿易がほぼ不可能になったにひとしく、海外貿易で繁栄したオランダにとっておおきな不幸でした。

徴兵制が敷かれたオランダから多くの兵が悲運のロシア遠征を強いられました。

オランダ人の間に反フランス感情が高まってゆきました。

1815年:ネーデルラント連合王国の誕生

1813年、ナポレオンが欧州連合に敗れたのを機にオランダからフランス軍が撤退しました。すかさず3人のオランダ人貴族が暫定政府をたて、イギリスに亡命していたオランイェ公(当時ウィレム6世)を呼びもどしました。

ウィレム6世は国家元首ウィレム1世のち、ネーデルラント国王ウィレム1世を宣言しました。ネーデルラント王国にはベルギーとルクセンブルクも含まれていました。

1839年:ベルギーの分離独立とオランダ王国の成立

八十年戦争以来、ベルギーはカトリック教徒が多数を占める地域でした。また一部ではフランス語が話されています。宗教、言語、教育政策が異なる地域を統治するのは簡単ではありませんでした。

1830年にブリュッセルで反オランダ暴動がおき、ベルギー臨時政府が樹立され、ベルギーの独立が宣言されました。国王は1839年に至って、ベルギーの独立をみとめました。こうしてネーデルラント王国はオランダ王国とベルギー王国に分離しました。

1890年:ルクセンブルクの分離 現在のベネルクス3国が形作られる

オランダ国王はルクセンブルク侯を兼ねていたので、ルクセンブルクとは同君連合でした。しかし1890年にナッサウ公のアドルフがルクセンブルク侯となって、オランダとの同君連合を解消したので分離しました。

(ルクセンブルク公国は女系の相続を認めていなかったので、国王ウィレム3世から次代女王ウィルヘルミナへは相続ができませんでした。)

こうして、現在のオランダ王国、ベルギー王国、ルクセンブルク公国という、「ベネルクス3国」が形作られました。

近代

歓迎されるポーランド兵 ブレダにて 1944年

1914-1918:第一次世界大戦で中立

オランダは中立の立場を守りつづけ戦場にはならずにすみました。戦場となったベルギーからは多くの難民がオランダに逃れてきました。

1940.5:ロッテルダム空襲 ナチスに降伏

中立を表明していたオランダに、ドイツ軍が宣戦布告なしに侵攻しました。ロッテルダムが爆撃され、オランダ政府が降伏しました。

女王ウィルヘルミナはドイツ軍の捕虜にされる前にイギリスに避難しました。オランダ政府はイギリスに亡命政府をつくりました。

オランダはドイツの占領下におかれ、オーストリア人による軍政が開始されました。

(いっぽうで日本によるハワイ真珠湾攻撃の報告を受けていちはやく日本に宣戦布告のは、アメリカでもイギリスでもなくオランダだったそうです(1941)。1ヵ月後に日本が応じて両国は戦争状態になり、オランダ植民地のジャワ島においてはオランダが日本に降伏する結果となりました。)

1944-1945:ナチスからの解放

オランダ人部隊を含む連合国軍によるノルマンディ上陸作戦が功を奏してオランダ南部3州が解放されるも、全土の解放までは月日を要し、飢えや燃料不足の苦しい越冬となりました。

1945年、ドイツが敗戦しオランダ全土が解放され、女王がイギリスから帰国しました。

世界史との比較年表

時期 オランダ主要地域 西洋史
先史
前1万:最後の氷河期終わる前1900:青銅器時代前750:鉄器時代
(ネーデルラントは先史時代) 前3000頃:エジプト文明、エーゲ文明、シュメール人の都市国家 前928頃:ヘブライ王国の分裂 前800頃:ギリシャに都市国家ポリス 前509頃:ローマ共和制 前500:ペルシア戦争 前27:ローマ帝国成立
古代
前57-後406:ローマ支配期
30頃:キリスト処刑 96:ローマ帝国五賢帝 313:コンスタンティヌス帝がキリスト教を公認 395:ローマ帝国東西分裂
中世
481:メロヴィング朝フランク王国-650:キリスト教が普及650-850±:カロリング帝国(800:カール大帝 / 870:メルセン条約)962-:神聖ローマ帝国 / 領邦国家の発展1200-:都市の発展1432-:ホラント伯領がブルゴーニュ家支配下に1477-:ホラント伯領がハプスブルグ家支配下に
476:西ローマ帝国滅亡 481:メロヴィング朝フランク王国 634頃:イスラム教徒の東ローマ進出 751:カロリング朝フランク王国 800:カール大帝が西ローマ帝戴冠 870:メルセン条約(仏・独・伊の原型) 962:オットー1世東ローマ帝国皇帝 1054:キリスト教会東西分裂 1096:第一回十字軍 1339:英仏百戦争 1492:スペインのレコンキスタ 1492:アメリカ大陸発見
近世
1504:ハプスブルク家ブルゴーニュ侯がスペイン国王に即位1568:八十年戦争始まる1581:スペイン国王廃位令1609-1621:休戦1648:八十年戦争終わり独立 ネーデルラント連邦共和国1795-:バターフ共和国(仏傀儡国)1806-:ホラント王国(仏傀儡国)1810-:フランス併合時代1815-:ネーデルラント連合王国1839-:オランダ王国
1517:[ドイツ]ルター「95ヶ条の論題」 1541:[スイス]カルヴァンの宗教改革 1543:[ポーランド]コペルニクスの地動説 1562:[フランス]ユグノー戦争 1598:[フランス]ナントの勅令 1618-1648:30年戦争 1642:[イギリス]清教徒革命 1661:[フランス]ルイ14世治世はじまる 1701:[ドイツ]プロイセン王国の成立 1701:[欧州]スペイン継承戦争 1740:[欧州]オーストリア継承戦争 1789:フランス革命 1799-1815:[欧州]ナポレオン戦争 1848:マルクス、エンゲルスの「共産党宣言」 1861:アメリカ南北戦争 1866:プロイセン・オーストリア戦争 1869:スエズ運河開通
近現代
1940.5:ロッテルダム空襲 ナチスに降伏1944-1945:ナチスからの解放
1914-1918:第一次世界大戦 1940-1945:第二次世界大戦
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松山大学の教員有志の方が作成されたウェブサイトにおかれているオランダ史の概説です。用語の解説も含まれていてわかりやすいです。

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