5世紀~9世紀のオランダ - ゲルマン世界とフランク王国 - 年表式
ローマ撤退後の現オランダとその周辺に相当する地域には、大きく分けて3つの民族が割拠することになりました。北海沿岸にフリース人、東にサクソン(ザクセン)人、中央から南へかけてはフランク人です。
なかでもフランク人は、5世紀後半にメロヴィング家のクローヴィスがフランク王国を樹立して、急速に勢力圏を広げました。ローマ人の統治形態および宗教(キリスト教)を踏襲し、現ベルギー南部のトゥルネーあたりを中心に、全ガリアを支配下に収めると、やがて北のフリース人、東のザクセン人と戦いを繰り広げました。8世紀前半に、同王国の宮宰カールマルテルによってフリース人の地も制圧されます。
8世紀後半、宮宰職を世襲していたカロリング家がフランク王国の実権を握って国王を廃し自ら王位に就きます。次代のカール大帝はフランク王国の最大版図を築きます。
巨大な帝国は中央政府だけで治められず、封建制度が定着します。また教皇からの戴冠による西ローマ(神聖ローマ)皇帝位の権威付けは、教皇を皇帝の上位に頂く構図となり、後の 皇帝 VS 教皇の権力闘争の元ともなりました。このほか、三圃式農業の開始、カロリング・ルネサンスが、この時代の特徴です。
カール大帝の孫の世代に相続争いが起こり、フランク王国は西・中央・東の三国に分割されたのち、中央の一部がさらに東西に分割されて、西フランク、東フランク、イタリアとなります。オランダを含む低地地方は最終的に東フランク王国に組み込まれます。
9世紀には、ヴァイキングの侵略が相次ぎ、ドーレスタットが荒廃します。フランク王国の支配者はヴァイキングに封土を与えて定着させることも試みました。
もくじ
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5世紀
481年頃:フランク王国の成立
406年のローマの撤退とゲルマン人の大移動にともなって南下して広がったサリ・フランク人がローマ文化や統治体制を吸収し、ガリア北部(現ベルギー~北フランス)に定着。481年に、メロヴィング家のクローヴィスがフランク王国を樹立。家名はクローヴィスの祖父メロヴィクに由来。王国の中心地は現ベルギー南部のトゥルネー。
6世紀
500年頃?:クローヴィスが洗礼を受けカトリックに改宗
政治的な動機:元ローマ帝国領であったフランク王国の住民は多数がすでにキリスト教徒であったこと、またキリスト教の効率的な組織構造が権威の伝達に適していたため。
550年-600年頃:フランク王国が、ほぼ全ガリアを支配下に
その北端はライン川付近までおよんだ。
7世紀
630年:ユトレヒトに小さなキリスト教会が建てられる
フリース人はこれを敵(フランク王国)の先遣隊とみなし信用せず、祖先の信仰を継続。
678年:伝道師ウィルフレッドがフリースラントに漂着
ブリテン方面からローマへ向かう途中でフリースラントに漂着。アルドギリス王から歓待され、その冬に福音を伝える。
689年:交易集落ドーレスタッドが一時フランク王国の領土に
現 Wijk-bij-Duurstede の近くに交易集落ドーレスタッドが栄えており、フランク王の宮宰ピピン2世がフリース人王ラドボドを破って一時的にこの地を得る。ドーレスタッドは、フランク王国南方の地中海と、フリースラント北東のバルト海を結ぶルート上にあり、フランク人とフリース人の双方の経済にとって重要な市場だった。
690年頃:フリースラントの南部がフランク王国支配下に入る
この頃のフリースラントは、現ベルギーの北西フランダース ~ 現ドイツのヴェーザー川河口にまで及んでおり、これの南部(北西フランダース)がフランク王国に制圧された。ただし、考古学的証拠によれば当時のフリース人は、ローマ時代のフリース人ではなく、ゲルマン人の大移動に伴って北海南西沿岸あたりから移動してきたアングロ・サクソン人の子孫だそう。
695年:ウィリブロードが初代ユトレヒト司教になる
王国が、フリース人を懐柔するためキリスト教を布教。ユトレヒトに司教座を設置し、アングロ・サクソン人のウィリブロードを司教として招聘。ウィリブロードはユトレヒトの伝道所に住み、聖マルティン教会と聖救世主教会を建てた。
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8世紀
714年:フリース人王がフランク人を追い出す
ユトレヒトの司教ウィリブロードも追い出される
716年:ボニファティウスがフリースラントでキリスト教伝道を始める
アングロサクソン人のボニファティウスが布教を進めるが、754年にフリース人によって殺害される。
734年:レック川以北のフリースラントもフランク王国の支配下に
フランク王国の宮宰で総司令官のカール・マルテルにより制圧される。
751年:ピピン3世がフランク王国カロリング朝を開く
カロリング家のカール・マルテルの子ピピン3世(小ピピン)が、メロヴィング朝のキルデリク3世を廃して自ら王位に即きカロリング朝を開く。カロリング家は7世紀の初めころからメロヴィング朝の宮宰職を世襲する地位を確立していた。
宮宰職とは、もともとは宮廷の家政を管理する官職だったが、家政と公務があいまいになり軍事力も手伝って権力を増しはじめ、次第に実権を握るようになっていた。
ピピン3世は司教ボニファティウスによって塗油聖別され、キリスト教文化から新たな威厳を獲得し、その権力の正統性を印象付けた。
7世紀-8世紀:フリース人の活発な商業活動
フリース人はフランク王国支配下で次第に落ち着きを取り戻した。オランダ内の取引の中心地はドーレスタットとユトレヒト。
進出先
ライン川をさかのぼってケルン、マインツ、ウォルムス、ドイツの奥地。ブリテン島のロンドンやヨーク、バルト海を通ってスカンジナビア。パリ近郊のサン・ドニ、クワントヴィク、(現エタープル)。ユトラント半島のハイタブなど。
商品
ドイツから穀物、モーゼルワイン。オランダから羊皮、魚、塩、リエージュ(ベルギー)から刀剣や武器。奴隷売買(戦争捕虜)。
768年:ピピン3世が没し息子のカールが後を継ぐ
弟のカールマンとの分国統治だったが、カールマンが早世したため、カール(大帝)がひとりで治めることになる。
9世紀
800年:カールが西ローマ皇帝として戴冠(カール大帝)
カール大帝の時代にフランク王国は最大版図を記録。中心地は現ドイツのアーヘン周辺。(ドイツではカール大帝の戴冠をもって神聖ローマ帝国の始まりとみなす。)カール大帝はネイメーヘンの居城にもしばしば滞在。広大な王国全体を中央政府だけで統治することはできず、地方の有力者に、その地域の君主権の行使(司法・課税・軍事など)を委ねざるを得なかった。
封建制度(Feudalism)
古ゲルマン人社会の従士制度(軍事的奉仕)と、ローマ帝国末期の恩貸地制度(土地の保護)に起源を見いだし、これらが結びつき成立したと説明されることが多い。国王が諸侯に領地の保護(防衛)をする代償に忠誠を誓わせ、諸侯も同様の事を臣下たる騎士に約束し、忠誠を誓わせるという制度である。この主従関係は騎士道物語などのイメージから誠実で奉仕的な物と考えられがちだが、実際にはお互いの契約を前提とした現実的なもので、また両者の関係が双務的であった事もあり、主君が臣下の保護を怠ったりした場合は短期間で両者の関係が解消されるケースも珍しくなかった。
更に「臣下の臣下は臣下でない」という語に示されるように、直接に主従関係を結んでいなければ「臣下の臣下」は「主君の主君」に対して主従関係を形成しなかった為、複雑な権力構造が形成された。これは中世西欧社会が極めて非中央集権的な社会となる要因となった(封建的無秩序)。
西欧中世においては、特にその初期のカロリング朝フランク王国の覇権の解体期において北欧からのノルマン人、西アジアと地中海南岸からのイスラーム教徒、中央ユーラシアステップ地帯からのマジャール人やアヴァール人などの外民族のあいつぐ侵入に苦しめられた。そのため、本来なら一代限りの契約であった主従関係が、次第に世襲化・固定化されていくようになった。こうして、農奴制とフューダリズムを土台とした西欧封建社会が成熟していった。
Wikipedia(2019-05-20)
810年:ノルマン人(ヴァイキング)の侵攻が始まる
フリースラント、フランドル沿岸で被害
841年:フリース・ノルマン侯国成立
フランク王ロターリウス1世がノルマン人(ヴァイキング)の首領2人に侯位と封土を授け、土地への定着を試みた。彼らは封土を与えられる代わりに、新たなヴァイキングとの戦いにおいては、国王側について戦う義務を負った。
841年:フォントノワの戦い
カール大帝の息子ルートヴィヒ敬虔王の死を契機に、その息子たちの間で行われた戦い。イタリア王の地位をも手に入れ権力を強化するロタールに対して、兄弟が叛旗をひるがえした。兄弟争いの構図は、西のシャルル & 東のルートヴィヒ VS 中央のロタール。結果は、シャルル & ルートヴィヒ側の勝利。
ロタール:中央フランク
ルートヴィヒ敬虔王の長男。父の生前に共同皇帝として戴冠。ロタール1世。
ルートヴィヒ:東フランク
ルートヴィヒ敬虔王の三男。バイエルンなどを支配。(後の東フランク王ルートヴィヒ2世。)
シャルル:西フランク
ロタールとルートヴィヒの異母弟。フランク王国西部で勢力を伸ばす。(後の西フランク王シャルル2世。禿頭王。)
843年:ヴェルダン条約でフランク王国が3分割される
カール大帝の孫の世代で争いの結果、王国を東・中央・西に3分割。低地地方は中央フランク(ロタール)王国の北端に位置することになる。
ロタールは中部フランク及びイタリア北部、それに西ローマ帝国皇帝の位を獲得。皇帝ロタール1世を名乗るが、宗主権は失った。またルートヴィヒは東フランク王国を獲得して国王ルートヴィヒ2世(ドイツ人王 / ルイ2世)を、カールは西フランク王国を獲得して国王シャルル2世(禿頭王 / カール2世)を名乗った。
Wikipedia
863年:ドーレスタッドがノルマン人の大略奪に見舞われる
834年から837年にかけてドーレスタッドが4回にわたって襲われ、863年の大略奪を最後に歴史から姿を消す。歴史から姿を消したのは、自然の影響でライン川がゆっくりと川床を移したために使用されなくなったことも一要因か。
870年:メルセン条約
869年にロタール2世が死ぬに至り、ルートヴィヒ2世とシャルル2世が中部フランク王国の分割を取り決めたのがメルセン条約である。この結果、ロドヴィコ2世はイタリア王国のみの領有が許され、メッツおよびアーヘンを含むロートリンゲン東部および上ブルグントの大半は東フランク王国に、ロートリンゲン西部およびプロヴァンスは西フランク王国に組み込まれることとなった。ロートリンゲン西部に関しては後に880年のリブモン条約において東フランク王国に移譲された。これによって、現在のイタリア・ドイツ・フランスの原型が形作られた。
Wikipedia(2019-05-19)
879-882年:ヴァイキングの大規模な略奪
ヴァイキングは複数の要塞を設けて、そこから襲撃を繰り出した。
885年頃:初代ホラント伯誕生
初代ホラント伯はヘルルフ1世。ケネマーラント伯とされたヴァイキングの一人との説がある。
887年:フランク王カール3世(肥満王)の廃位
東フランクでは主導権を握っていたルートヴィヒ3世とカールマンが相次いで死去し、残っていたカール3世(肥満王)が予想外の幸運により東フランク全体の王となっていた。彼はさらに皇帝位とイタリア王位も手にし、西フランク王位をも委ねられ、ここにフランク王国の最後の統一がなされた(詳しくは最後の統一)が、能力が伴わず、887年に東フランクのカールマンの庶子アルヌルフによって廃位され、翌年には死去した。
カール3世の死後、東フランクではアルヌルフによってカロリング家の支配が維持されたが、彼は西フランクの王位については拒否した。またイタリアでは、女系でカロリング家と血縁関係を持つフリウーリ公ベレンガーリオ1世(ベレンガル1世)が王に選出された。
900年頃:低湿地の開墾が始まる
泥炭地に進出して住む人が現れはじめる。それまではローマ人も、その後のゲルマン人も、泥炭地は避けていた。