10世紀~13世紀のオランダ - 神聖ローマ帝国下での領邦国家の発展 - 年表式

東フランク王国では、地元の有力貴族(公爵 = 上級官吏)や王家と姻戚関係にある者が各地方ごとに統治を委任されていましたが、彼らは王権に従いながらも自立も狙っていました。

10世紀初頭に東フランク王国のカロリング家が断絶すると、地方の支配者はフランケン公コンラートを国王に選出し、コンラートはザクセン公ハインリヒ1世を後継者に指名しました。(ゲルマン民族には、国王を”選出”する慣わしがあったそうです。ただし被選挙権者は基本的に前王の血縁者に限られ、また国王には後継者の指名権もありました。)

低地地方が位置したロートリンゲンは、ハインリヒ1世に併合されてドイツ王国の一部となりました。

10世紀初頭から空位となっていた西ローマ(神聖ローマ)皇帝位に、ハインリヒ1世の息子でドイツ王のオットー1世が戴冠されて、約40年ぶりに皇帝の称号が復活します。これが以後1806年まで続く「神聖ローマ帝国」の始まりとみなされています。(この称号は「西方キリスト教会最高位の君主」という意味なので、本来はドイツ以外の君主も選ばれうるのですが、歴史を通じてドイツ国王が戴冠されることが慣習化しました。)

ドイツ王国の一部となり神聖ローマ帝国の一部ともなった低地地方ですが、中央政府の手は十分に及ばず、やがて地方の有力者が事実上独立し、国王/皇帝に従うのは名目にすぎなくなりました。

ヴァイキングの侵略が落ち着きをみせる11世紀以降の低地地方では、4つの勢力がしのぎを削ることになります。ユトレヒト司教領、ホラント伯領、ヘルレ伯領、フリースラントです。

また、交易を通じて都市が発展し、次第に封建領主に対する発言力を強めるようになりました。

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10世紀:ドイツ王国の地方として

925年:オランダの地がドイツ(=東フランク王国=神聖ローマ帝国)の一部となる

ザクセン公ハインリヒが東フランクで919年に王位につき(ハインリヒ1世 / 捕鳥王 )925年にロートリンゲンを併合した。

そもそもザクセン人とはカール大帝の征服事業における最大の難敵でもあり、この時点で東フランク王国は「フランク王国」ではなくなったとも言える。ハインリヒ1世は(中略)王国の分割相続の慣例を否定し、ロートリンゲンを奪還し、マジャール人に対する防衛戦にも成功し(中略)より強固な王権を息子オットー1世に残して936年6月に死去した。

Wikipedia
Europe around 9th-10th / Public Domain, Link

962年:オットー1世の戴冠

オットー1世がローマで皇帝として戴冠され、神聖ローマ帝国の時代が始まる。

ただしこの時点ではまだ単に「帝国」と呼ばれており、神聖ローマ帝国という国号になるのはさらに約300年先のこと。また、現ドイツではフランク王国のカール大帝が西ローマ帝国皇帝として戴冠したとき(西暦800年)を神聖ローマ帝国のはじまりと見なすらしい。

※オットー1世:ザクセン朝第2代の王、初代皇帝で初代国王ハインリヒ1世の子。神聖ローマ帝国の初代皇帝とも見なされる。

11世紀~13世紀:領邦国家の発展

ネーデルラント北部の4大勢力

ユトレヒト司教領

フランク王国の王がフリース人を懐柔するためにユトレヒトに司教を派遣したことが始まり。やがて、東フランク国王(のちにドイツ国王)が叙任する司教は、有力になりつつある地方貴族(従臣)への対抗力としての意味を持つようになる。歴代の司教はドイツ王の寵臣であるドイツ貴族であった。司教には、カロリング朝時代に所領と未利用地が与えられ、ザクセン朝時代には国王大権の一部(貨幣鋳造権、通行税徴収権、狩猟権、漁業権など)と「伯」としての世俗権力をも与えられた。こうした結果、司教領は今日のユトレヒト州(下司教領)と、オーファーアイセル州+ドレンテ州(上司教領)に及んだ。しかしやがて、司教の叙任権をめぐって、教皇と皇帝の間で叙任権闘争が勃発する(⇒1122年ウォルムスの協約)。

Bishopric of Utrecht c. 1350. Nedersticht is the smaller territory while Oversticht is the larger territory. By Sir Iain – Own work, CC BY-SA 3.0Link

ホラント伯領

9世紀にケネメルラント周辺(現ハールレム周辺)を領域としていたフリースラント伯のヘルルフなる人物が、ホラント伯の開祖と云われる。(当時のケネメルラントは大フリースラントの領域に含まれていた。)このヘルルフの素性については、フリースラント王のラドボドの子孫だとする説※1と、9世紀に封土としてケネメルラントを与えられたヴァイキングだとする説がある模様※2。10世紀、ヘルルフの子孫と見られるディルク2世は神聖ローマ皇帝オットー2世の選出を支持したことを認められ、マース川~フリー水道に領土を与えられる。しかし11世紀には、ディルク3世がムーズ川の河口に通行料を掛けはじめ、この懲罰にあたった下ロートリンゲン公(ブラバント公?)とユトレヒト司教の遠征軍を撃退するなど、政治的、行政的に独立性を高めていた。

※1…Wikipedia
※2…オランダ小史 先史時代から今日まで [ ペーター・J・リートベルゲン ]

The County of Holland around 1350. By Sir Iain - Based on the map 'Lage landen omsteeks 1350' in the De bosatlas van de geschiedenis van Nederland, p. 145 (2011)., CC BY-SA 3.0, Link

ヘルレ伯領

文書記録によれば11世紀末にヘラルトなる人物が初めてヘルレ伯として登場するのだそう。その領土はユトレヒト司教領の東側に隣接しており、ライン川やマース川の流域を支配下におき、通行税収入は多かったものの、都市の発展は遅かった。14世紀に皇帝により侯領に地位を引き上げあられる。(⇒1339年ヘルレ伯がヘルレ侯に昇格)

Duchy of Guelders and the County of Zutphen, about 1350 By Sir Iain - Own work, CC BY-SA 3.0, Link

フリースラント

中世のフリースラントは現在のフリースラント州よりもずっと広く、実質的な支配的家門をもたなかった。領域の一部が、9世紀にノルマン侯国、11世紀に辺境伯領、12世にはホラント伯とユトレヒト司教に共同統治されるが、形式的なものにすぎず長続きはしなかった。同時代の他の地域で多く見られた封建制や領主制はこの地では根付かず、不自由身分のない自由農の世界(あるいは無法状態?)だった。

The Frisian Sea countries around 1300 Door --Don Leut 19:12, 19 November 2007 (UTC) - improvement of Image:Friesische_Seelande.png, Publiek domein, Koppeling

英 1066年:ノルマン・コンクエスト

10世紀初め、ヴァイキングの一首領ロロが西フランクを襲撃しない見返りとして、シャルル3世によってキリスト教への改宗と領土防衛を条件に、フランス北西部のセーヌ川流域に領土を封じられた。これがノルマンディー公国の始まりである。なお、ロロの子孫で西フランク(フランス)王の臣下でもあったウィリアム1世がのちにイングランドに侵攻し、ノルマン朝を開いている。これが1066年のノルマン・コンクエストである。

Wikipedia

欧 1096年:第一回十字軍

セルジューク朝に領土を奪われたビザンツ皇帝がローマ教皇に救いを求め、聖地エルサレムをイスラム教徒から奪還するために軍を派遣したのが十字軍遠征のきっかけ。

1100年頃:堤防の建設が始まる

ヴァイキングの襲来が終息した11世紀初頭から、気候が温暖化し、農業生産が改善し、人口が増加した。より多くの土地の必要性に加えて、温暖化によって海面が上昇したことから、堤防の建設が必要とされた。

1122年:ウォルムスの協約

叙任権闘争の結果、ウォルムスの協約が成立。ドイツ王が司教の任命権を失い、代わって聖堂参事会が司教選任権もつ。このため、今度は地元の有力貴族(ホラント伯やヘルレ伯)が司教職を巡って争うようになる。(聖堂参事 Cathedral chapter はローマ・カトリック教会の機関で、 司教を補佐して教会聖務の執行・世俗的諸任務の遂行を行う組織。)

交易の新ルートとハンザ都市

交易の新ルート

取引商品の量が増えたことによって大きな商船が使われ始めるが、これらの船は内陸の水路を行くには大きすぎた。このため、迂回ルートが「北海-ズント海峡-バルト海」などが新たに使われ始める。内陸のユトレヒトやティールの港は競争力を失い、代わって Stavoren、Leeuwarden、Groningen、Dokkum、Bolsward などの海港が栄えた。バルト海の諸港から低地地方に供給される豊富な木材や穀物を、商人はさらに南の市場へ売りにも行き、その帰りには北で売れそうなものを仕入れて戻って来た。

Main trading routes of the Hanseatic League By Flo Beck - Own work, Public Domain, Link

ハンザ都市

オランダではザイデル海、アイセル川沿いの都市の多くもハンザ同盟に参加した。これらの都市は経済問題について独立した立場をとることを望み、地域の君主は都市にこのような自由を特権として認める代わりに戦時の財政支援を得ることを望んだ。この種の協約は都市の憲章に盛り込まれた。

11 – 12世紀の商人は特定の街に定住ぜず、各地を遍歴して商品を売買する「遍歴商人」が主流だった。(中略)ハインリヒ獅子公はオデルリクスを団長とする遍歴商人団体を承認し、民事・刑事上の司法権を与えた。商人団長に大きな権限が与えられたのには、ドイツから離れた地で異民族と競合しながら商売をしていくために、強いリーダーシップが必要があったためである。こうして、遍歴商人たちの団体である「商人ハンザ」が誕生した。(中略)13世紀になると遍歴商人、使用人に実務を任せ、自らは本拠地となる都市に定住しながら指示を出す「定住商人」が台頭する。彼らは定住する都市で都市参事会を通じて政治に参加する有力市民であり、彼らの相互援助の都市間ネットワークを通じて都市間で条約が結ばれていった。これに伴い、ハンザ同盟の性格も商人団体から、商人が定住する都市によって構成される都市同盟「都市ハンザ」へと変質する。

Wikipedia(2019-05-24)

1220年/ 31年:皇帝フリードリヒ2世による特権状

教会諸侯との協約:教会領に国王が干渉しないことを約束する特権状諸侯の利益のための協定:世俗諸侯に領内の最高裁判権と貨幣鋳造権を認めた特権状詳細⇒諸侯の利益のための協定(コトバンク)

1247年:ホラント伯ウィレム2世がローマ王[ドイツ王]になる

ローマ皇帝フリードリヒ2世の対立王テューリンゲン方伯ハインリヒ・ラスペが死去した後、諸侯と教皇インノケンティウス4世によって新たな対立王に選出された。実力でというよりは担ぎ出された感が強い。

1256年:ホラント伯ウィレム2世が戦没

フリース人を征伐するため西フリースラントへ遠征し志半ばで戦死した(28歳)。唯一の息子フロリスが2歳であったため、摂政職を巡って争いが起こる。

1274年:ケネメルラントの農民の反乱

成人したフロリス5世は権力の拡大を図り多くの敵をつくった。ユトレヒト司教領の貴族は、フロリス5世支配下の農民の反乱を支援した。フロリスは農民に多くの特権を与えざるを得なくなったが、これによって、農民からは支持を得るようになった。

1287–1288年:フロリス5世の西フリースラント遠征が成功

父の亡骸を取り戻す。

1296年:フロリス5世が暗殺される

殺害まで望んだかはわからないが、首謀者はイングランド王エドワード1世とフランドル伯。イングランド産の羊毛の取引はホラント伯(フロリス5世)領のドルドレヒトで行われていたが、イングランド王エドワード1世が取引場所をブラバントのメヘレン(現ベルギー)へ移した。これには、フランスと敵対するイングランドが、フランドル伯を味方に付けておきたい狙いがあった。

しかし、当時フランドル伯との関係が良好ではなかったホラント伯フロリス5世は、フランス側につくことになる。これを受けてエドワード1世とフランドル伯は、フロリス5世の誘拐を共謀し、フロリス5世に恨みを抱いていた地元の貴族らが実行にあたった。フロリス5世は狩猟パーティの際に誘拐され、マウデン城に幽閉される。農民のグループが彼を助けようとしたとき、実行犯のひとりがフロリス5世を殺害した。


参考資料

書籍:図説オランダの歴史オランダ小史A short history of the NetherlandsA short history of Amsterdam  ドイツ史10講  神聖ローマ帝国

Web:Henry the Fowler (ハインリヒ1世)ドイツの君主一覧KennemerlandWater board (Netherlands)Counts and dukes of GueldersFloris V, Count of Holland  East Francia  History of the Netherlands  Carolingian Empire  神聖ローマ皇帝一覧  Middle Francia  Lotharingia  Duchy of Lorraine  Duke of Lothier  ロタリンギア