17世紀のオランダ - 八十年戦争の後半と黄金時代 - 年表式
16世紀後半に始まったスペインとの戦争は17世紀に入って12年間の休戦に持ち込まれました。ウィレム1世(沈黙公)に従い反スペイン運動を指導したホラント州法律顧問(大法官)オルデンバルネフェルトは、ウィレム亡き後は息子マウリッツ公を助け連邦共和国の基礎を築きます。しかし立場や意見の相違から両者の溝は深まり、ついにはオルデンバルネフェルトの処刑が決行されました。
再開されたスペイン戦争中にマウリッツ公が没し、跡を継いだ異母弟フレデリック・ヘンドリックがスペインからいくつかの都市を奪還して亡くなると、その長男ウィレム2世が総督に就任しました。
1648年、ミュンスター条約によって80年戦争が終結しオランダ共和国が国際的に承認されました。国王に代わるリーダー的ポジションは二つあり、「ホラント州法律顧問(≒首相)」と「ホラント州総督(=オランイェ家)」でした。
英国で内戦(ピューリタン革命 / 議会派 vs 王党派)が勃発すると、ウィレム2世は王党派を支持して介入したい考えを示し、これに反対して軍縮をすすめようとした州議会議員を投獄しました。投獄された中には、のちのホラント州法律顧問ヨハン・デ・ウィットの父親が含まれていました。
ウィレム2世が天然痘で急死すると、州議会は「総督」を任命しないことを決定します(無総督期)。数次に及ぶ英蘭戦争が起こりますが、ときの法律顧問ヨハン・デ・ウィットの政策によって勝利に導かれました。しかし艦隊の強化に尽くす一方でおろそかになっていた陸軍の隙をつかれ、フランスに攻め入られて重要な都市を占領されます。
不安と恐怖に陥った民衆の要求によって「総督」が復帰し(ウィレム3世)、フランスの進軍は食い止められましたがヨハン・デ・ウィットは暴徒と化した群衆に虐殺されるという最後を迎えました。
ウィレム3世は母方から英国王家の血を引いており英国王ジェームズ2世の娘メアリの夫でもあったため、ジェームス2世を排除したいホイッグ派によって担ぎ出され、ウィリアム3世として英国王に即位しました(英国名誉革命/英蘭同君連合)。
もくじ
広告
休戦まで
1600年:臼杵にオランダ船リーフデ号が漂着(日本)
臼杵にオランダ船リーフデ号が漂着(日本)
1602年:オランダ連合東インド会社(VOC)設立
1602年1月、各社の代表が連邦議会に招聘されて会合し「連合東インド会社」を設立。 この組織にはアジアとの全ての貿易を独占する権利が与えられる。 「連合東インド会社」は世界初の株式会社ともいわれる。(⇒THE WORLD’S FIRST STOCK EXCHANGE(PDF))
1603年:VOC最初の船団がアジアに向かう
インドネシアのジャワ島の西部に恒久的な交易所を設置する
1609年:12年間休戦条約
アントウェルペンで12年間休戦条約が成立する。 この時点で、両国が実効支配している現状を固定化した(よってスペイン軍はそのまま南部地方に駐留、カトリック以外の宗教を禁止する)。 この休戦は欧州に限るもので、海外での戦いは継続された(?)。
オルデンバルネフェルトと諸都市の考え
- 現状に満足、和平を進めたい
- 長引く戦争は財政問題を悪化させる
- 南部諸州を組み入れることに経済的な利益を見出さない(スヘルデ河の閉鎖によって南部の交易と工業が衰退した結果の北部都市の繁栄だったので、この繁栄を継続したい考え)
マウリッツ公の考え
- 離脱した7州以外のネーデルラント10州(南部)を反乱側に引き入れて戦争を継続したい
- 総督としては5州に仕える身に過ぎない彼(他2州の総督は彼の従兄弟)が、連邦の最高司令官という実権のある地位を維持するためには、戦争が必要
熱狂的カルヴァン派の考え
- カトリックのスペインとの闘争を継続したい
1609年:オランダ船が平戸に来航、商館設置(日本)
幕府から正式に貿易を許可され商館を設置する。(⇒ 1641年:オランダ商人が長崎の出島に移される )
1618年:全国教会会議(アルミニウス派とホマルス派)
1610年-11年、ライデン大学の教授の間で「予定説」の見解についてアルミニウス派とホマルス派の論争が起こり「予定説に対する抗議書(by アルミニウス派)」が"連邦議会"に提出された(カルヴァン派の教会には教義上の諸問題について決定を下す最高当局が存在しないため議会に提出された)。
この論争は、対立関係にあったオルデンバルネフェルト(ホラントの法律顧問)やマウリッツ公(5州総督および連邦軍最高司令官)らの政治的経済的な思惑を巻き込んで紛争となった末に、1681年に「教会会議」が開催され、マウリッツ公が支持したホマルス派の勝利に終わった。(但し、実際には後年、寛容なアルミニウス派が多くの都市貴族から好まれるようになり開放的な社会が築かれた。)
- アルミニウス派 / 寛容 / 穏健 /予定説の抗議書派 / 議会派…オルデンバルネフェルトが支持
- ホマルス派 / 厳格 / 忠実な正統 / 予定説の答弁書派 / 総督派…マウリッツ公が支持
1619年:オルデンバルネフェルトの処刑
休戦反対派のマウリッツ公と、賛成派のオルデンバルネフェルトの対立は、休戦中の宗教問題を通じていっそう深まっていた。
1618年の全国教会会議の開催が決まる前、ホラント州議会は、宗教問題が他の州によって政治的に利用されることを恐れて「全国教会会議の開催」を拒否し「緊急決議」を採択していた。
ホラント州法律顧問オルデンバルネフェルトは、建前上"暴徒に備えて"市民軍を召集するよう各都市に勧告するが、マウリッツ公はこれを軍最高司令官である彼の権威に対する攻撃と見做して反撃に出た。
マウリッツ公は強圧的な手段で市民軍を解散させるも、連邦議会に彼の行動を容認させて正当化し、オルデンバルネフェルトを国家反逆罪で処刑した。
1619年:VOCがジャワにバタヴィア城を建設
ジャカルタの小国を征服し、要塞を築いて、アジア全域の活動拠点とした。
広告
八十年戦争の後半とオランダ共和国の誕生
1621年:スペイン戦争再開
スペイン戦争再開
1621年:西インド会社設立
貿易会社を装った私掠業会社。スペインやポルトガルの船を攻撃、略奪することが主目的。
1624年:フランスとコンペーニュ条約を結ぶ
フランスとコンペーニュ条約(対ハプスブルク同盟)を結ぶ
1625年:イギリスとサウスハンプトン条約を結ぶ
イギリスとサウスハンプトン条約(The treaty of Southhampton)を結ぶ
1625年:ヨハン・デ・ウィットが生まれる
のちのアムステルダム州法律顧問。
1625年4月:マウリッツ公が没し、フレデリック・ヘンドリック公が総督になる
マウリッツの異母弟フレデリック・ヘンドリックが跡を継ぎ、5州の総督および陸海軍最高司令官となる。フレデリック・ヘンドリックは軍事的成功を収めデン・ボス(1625)、フェンロ―、ルールモント、マーストリヒト、ブレダ(1637)、サス・ファン・ヘント、フルストなどの都市を獲得。「都市奪還者」の異名をとる。新たに共和国に追加された都市のうち、これまでスペイン王に忠誠を誓っていた都市には完全な政治的権利は与えられなかった。
1630年:西インド会社がブラジルに拠点を移す
砂糖生産を開始し、アフリカから送り込んだ黒人奴隷を使役。
1635年:フランスと攻守同盟
スペインが支配しているネーデルラント南部地方を言語境界線に沿って両国で分割する約束。
1637年:エル・ミナ要塞を黒人奴隷貿易の拠点に
エル・ミナ要塞を黒人奴隷貿易の拠点に
1639年:マールテン・トロンプ提督がスペイン艦隊を討つ
ドーヴァー海峡でスペイン艦隊に大打撃を与える。スペインはイギリス(1624-1630)、フランス(1627-1631、1635-)、スウェーデン(1634)とも戦争をしており、対オランダに十分な戦力を投入できず、この時期はオランダ優位の展開が続く。
1640年:オランダ共和国で休戦へ向けた動き
戦争の継続が交易の利益を損なうこと、債務が嵩んでいること、戦争に疲れたことなどから休戦のための交渉が始まるが、全州の合意に達するのは6年後。(⇒ 1646年:オランダ共和国の全州が休戦に合意 )
1641年:ポルトガルと休戦条約
1640年にスペインからの独立を回復したポルトガルと休戦条約を結んだ
1641年:オランダ商館が長崎の出島に移される(日本)
オランダ商館が長崎の出島に移される(日本)
1641年:フレデリック・ヘンドリックの長男ウィレムの結婚
英国チャールズ1世の長女メアリと結婚
独 1643年:30年戦争の終結へ向けた和平交渉が始まる
これを機にオランダ共和国でも休戦の機運が高まる。
1646年:スペインとの休戦交渉が始まる
( 1640年:オランダ共和国で休戦へ向けた動き ⇒)ようやく全州(ゼーラント以外?)の合意を得て、スペインとの休戦交渉が始まり、実質的な戦闘は終わる。
1647年:フレデリック・ヘンドリック公が没し、ウィレム2世が総督になる
フレデリック・ヘンドリックの長男ウィレム2世が5州の総督と立会軍最高司令官に任命される。ウィレム2世はスペインとの休戦に反対だった。
1648年1月:ミュンスター条約で80年戦争の終結とオランダ共和国の正式承認
ドイツのミュンスターでオランダとスペインの講和条約が調印された。スペイン国王がオランダ共和国(ネーデルラント連邦共和国)を主権国家として認め、神聖ローマ帝国皇帝もこれを承認した。ここにオランダ共和国が正式に誕生する。
現在のベルギーにほぼ相当する南部はスペイン領ネーデルラントとして引き続きスペインの支配下に留まった。オランダ共和国は「スヘルデ河の閉鎖の継続」を要求し、これが決定したことによって、アントウェルペンが貿易港として復活することはなくなり、アムステルダムがネーデルラントの主要な国際港として栄えることになった。
ユトレヒト同盟の発足の年からこの同盟に加わっていたアントウェルペンだが、1585年にスペインに降伏を余儀なくされており、プロテスタントの市民は北部へ移住していた。
オランダ共和国におけるローマ・カトリックの信仰の自由は否定された。カトリック教徒は隠れ教会で礼拝することは容認されたが、二級市民として扱われ、公職に就くことはできなかった。一方でユダヤ教の礼拝堂シナゴークは公認されていた。
ミュンスターで調印された講和条約「ヴェストファーレン条約(1648年)」の一部であるミュンスター条約(神聖ローマ帝国とフランス/10月)と、上述のミュンスター条約(スペインとオランダ/同年1月)は別物。参考: Peace of Westphalia|Wikipedia / ミュンスター条約とウェストファリア条約 | 金獅子亭
1650年7月:ウィレム2世がホラント州議会の政敵を投獄
英国で起こった内戦(ピューリタン革命 / 議会派 vs 王党派)で、スチュアート王家がクロムウェルによって追放されていた。ウィレム2世は、ステュアート朝チャールズ1世の長女メアリと結婚していたことから、ステュアート王家を援助するため陸軍の強化を目指したい考えだった。
しかし、ホラント州議会はこれを拒否して、常備軍の経費負担も削減して軍縮を進めようとした。このため、ウィレムは実力行使でホラント州議会の6人の有力な都市貴族を、レーフェスタイン城に投獄した。また反抗的な都市には脅迫を行って州議会での支持をとりつけようとした。
広告
第一次無総督期
1650年11月:ウィレム2世が急死、第一次無総督期
議会との抗争の最中、ウィレム2世が天然痘で急死する。これを機にホラント州は各州の代表を招集して「大会議」を開き、州の権力と独立性を確かにするため当分の間「総督」を任命しないことを決めた。これが第一次無総督期である(厳密には、北部2州には別の総督がいたので、全国的な体制ではない)。ウィレム2世の死後9日目に生まれたウィレム3世は、州の監督下に置かれる。
1651年4月:英クロムウェルが「英蘭で単一のプロテスタント共和国」を提案
クロムウェルの使節団がハーグに赴き、「オランイェ家の排除」と「両国で単一の共和国をつくること」を提案。その狙いは「ステュアート家と結びついているオランイェ家を排除したい」こと「オランダの経済活動を取り込みたいこと」とみられる。交渉はかみ合わず、使節団は帰国する。
1651年10月:英国が「航海法」を発表する
英国は自国の海運と貿易を保護するため、輸入は英国の船か原産国の船でのみ行うことを定めた。これによってオランダの海運業は主たる収入源のひとつを失うことになった。
1652年:対英戦争(第一次英蘭戦争)
イギリス商隊とオランダの商隊がドーヴァー海峡で遭遇し、意地の張り合いから戦争に発展。(⇒ 1654年:英国とウェストミンスター講和条約 )
- 場所 イギリス海峡、北海、イタリア沿岸
- 結果 イングランド共和国側の勝利、ウェストミンスター条約の締結
1652年:VOCが喜望峰を占領
VOCが喜望峰を占領
1653年:ヨハン・デ・ウィットがホラント州法律顧問に選出される
27歳のヨハン・デ・ウィットが州法律顧問に選出される(彼はドルドレヒトの出身で、父親はウィレム2世によってルフェステイン城に監禁されたうちの一人のドルドレヒト市長だった)。ヨハン・デ・ウィットは19年間にわたって共和国を主導する。(⇒ 1672年8月20日:ヨハン・デ・ウィッテがハーグで暴徒に虐殺される )
1654年:英国とウェストミンスター講和条約
イングランド共和国側は、オランイェ家が権力の座に復帰しないことを求めた。連邦議会とホラント州議会の意見は分かれたが、ホラント州議会は秘密条項(排除令)として英国との講和条約に含めた。航海法(⇒ 1651年10月 )は撤回されなかった。
1656年:スピノザがアムステルダムから追放される
スピノザは聖書に批判的な研究をしたとして、ユダヤ人共同体から破門され、アムステルダムからも追放された。ハーグに住まい1670年に「神学・政治論」を発表する。
1660年:イギリスで王政復古
フランスに亡命していたチャールズ2世(ウィレム2世の妻メアリの兄)がオランダ経由で帰国。これによりオランダ共和国におけるオランイェ家の立場は強くなり、新国王チャールズ2世の圧力もあって排除令(1654)は廃止された。
仏 1661年:フランスでルイ14世の親政がはじまる
国王自らが政治を行う。財務総監はコルベール。
1662年:蘭仏同盟
蘭仏同盟
1664年9月:ニューアムステルダムがニューヨークに
北米のオランダ植民地 ニーウ・アムステルダム を イギリス軍が占領し、ニュー・ヨークと改名する。
1665年:第二次英蘭戦争(オランダが宣戦布告)
ミヒール・デ・ライテル提督の活躍でオランダ艦隊が勝利する(⇒ 1667年:英国とブレダ講和条約 )
- 場所 北海、イギリス海峡
- 結果 オランダ共和国の勝利、ブレダ講和条約
1666年:ドーヴァー海で四日間海戦
イギリス艦隊がオランダ海岸を焼き討ちにし、オランダ史上最悪の惨事となる。
1667年:ライテルのオランダ艦隊が英テムズ河口のチャタムを攻撃
ロンドンに迫る勢いを見せイギリスが劣勢になる。
1667年:英国とブレダ講和条約
イギリスの航海法(⇒ 1651年10月 )の緩和により、オランダが「通商航海の自由」を確保する。
1667年:仏ルイ14世がスペイン支配下の南ネーデルラントに侵入(遺産帰属戦争)
重要都市を次々と占領し、オランダに迫る勢い。
1668年1月:オランダ、イギリス、スウェーデンが三国同盟
フランスを牽制するための三国同盟。
1668年5月:フランスがスペインとアーヘン条約を結んで講和する
( 1667年:仏ルイ14世がスペイン支配下の南ネーデルラントに侵入 ⇒)
1670年6月:英仏が「ドーヴァーの密約」を結ぶ
フランスは、財政難の英チャールズ2世への資金援助と引き換えに結んだ密約を、オランダを攻撃するための同盟関係に発展させる。チャールズ2世の狙いは、ウィレム3世をオランダの主権者にすえることだったが、ルイ14世の狙いはオランダ侵略で、ドイツのケルン大司教やミュンスター司教も抱き込んだ。
1672年:オランダの「災厄の年」
- 2月?:ウィレム3世が陸軍最高司令官に任命される
- 3月:英仏がオランダに宣戦布告(第三次英蘭戦争はじまる 。フランスのオランダ侵略戦争はじまる。)
- 6月:デ・ライテル提督率いるオランダ艦隊が英仏連合艦隊を襲い大打撃をあたえる
- 6月:ルイ14世率いるフランス軍がライン川を越えて攻め入りユトレヒトとナールデンを占拠する
- 6月:「ホラント冠水防衛線」の発動(フランス軍が近づいてきた6月8日から通水が始まり月末に完了。冠水防衛線に沿って要塞が配置され迎撃準備を整えフランス軍の進軍を食い止めた。)
- 6月:ケルン大司教とミュンスター大司教がフランスに呼応(北東部から侵入し3州を占領。)
- 7月:フランス軍が海からの上陸に失敗
- 7月:ウィレム3世(21歳)を総督に任命(各方面から同時攻撃にさらされ混乱する民衆から「総督」を求める声が高まり、オランイェ家の求心力が頼られてウィレム3世が5州総督に任命される。)
- 8月4日:ヨハン・デ・ウィットが法律顧問を辞職(英蘭戦争の海戦での勝利はヨハン・デ・ウィットの努力に負うところが大きかったが、彼は艦隊の増強に尽くす一方で陸軍を軽視したともいわれる。この政策の危険性がフランスと、ケルンおよびミュンスター司教軍の進軍によって明らかとなり、ヨハン・デ・ウィットは失策を認め辞職した。)
- 8月20日:ヨハン・デ・ウィットがハーグで暴徒に虐殺される(総督の復帰、ヨハン・デ・ウィットの辞職をもってしても、民衆の不安はおさまらず、ヨハン・デ・ウィットは、かつてドルドレヒト市長を務めていた兄ともどもハーグで群衆に襲われて、虐殺された。)
広告
総督ウィレム3世の時代
1673年6月と8月:英仏連合艦隊がオランダ艦隊の海戦
オランダ側が優勢に立つ。
1674年:ウェストミンスター講和条約(第三次対英戦争がおわる)
デ・ライテル提督の活躍で海戦に勝利。イギリスが単独でオランダと講和条約を結び英仏連合から離脱する。
1674年:ケルン司教およびミュンスター司教との講和
ケルン司教およびミュンスター司教との講和
1674年:通商航海条約
通商航海条約
1674年:西インド会社が解散⇒新西インド会社
黒人奴隷取引に専業化
1674年:ホラント州とゼーラント州がオランイェ家に総督職の世襲を認める
ホラント州とゼーラント州がオランイェ家に総督職の世襲を認める
1675年:ホラント州とゼーラント州がオランイェ家に陸海軍最高司令官の世襲を認める
ホラント州とゼーラント州がオランイェ家に陸海軍最高司令官の世襲を認める
1677年11月:オランイェ公ウィレム3世が英ヨーク侯の長女メアリと結婚
英ヨーク侯とは、のちの国王ジェームズ2世。彼は国王チャールズ2世の弟で、ウィレム3世の母メアリの弟でもある。つまりウィレム3世と妻メアリは従兄妹同士にあたる。
1678年:フランスとネイメーヘン条約
フランスでの商業的利益を損なうことを懸念した都市貴族たちが、フランスとの長引く戦争を支持しなくなり、フランス国王ルイ14世との和睦を提案する。オランイェ公は不本意ながら受け入れ、講和が成立する。
英 1685年:ジェームズ2世が王位に就く
英チャールズ2世が死去し弟のジェームズ2世が王位に就く
1688年:英ホイッグ派が、メアリの夫ウィレム3世に軍事援助を要請
ジェームズ2世を排除したいホイッグ派が、メアリの夫ウィレム3世に軍事援助を要請。ウィレム3世はこれに応じたい考えを示し、ホラント州議会は秘密決議でこれを認め、連邦議会も援助を決定した。ウィレム率いるオランダ軍は、11月にイギリスに上陸し12月にロンドン入りする。
1688年11月:フランスがオランダに宣戦布告
(⇒ 1689年:大同盟戦争/九年戦争 )
1689年2月:ウィレム3世が英国王ウィリアム3世となる(英国名誉革命 / 英蘭同君連合)
メアリが女王に即位してメアリ2世となり、夫ウィレムは国王ウィリアム3世となる。両国の同君連合が始まる。(⇒ 17世紀のイギリス)ウィレムがイギリス国王に即位したことにより、オランイェ家の名声は高まったが、オランダの平和と国益には結びつかないことが徐々に明らかになる。オランダは世界貿易におけるかつての主導的な地位を失い衰退へ向かうことになる。
1689年12月:大同盟戦争/九年戦争/ウィリアム王戦争
スペイン領ネーデルラントやオランダ共和国を狙って膨張するフランスに対し、英国王ウィリアム3世(オランイェ公ウィレム3世)は英国、オランダ共和国、スウェーデン、スペイン、ドイツ皇帝、ドイツの領邦などと「対フランス大同盟」を結んで戦った。(⇒ 1692年:ブルターニュの海戦 )
1689年4月・9月:英蘭の連合艦隊条約/同盟
英蘭の資金(資源)は、陸軍についてオランダが多く提供し、海軍についてイギリスが多く提供した。これによってイギリスが海上で主導権を握ることになる。
1692年:ブルターニュの海戦
英蘭連合艦隊がフランス艦隊を破り、制海権を握る。
1697年9月:レイスウェイク講和条約
( 1688年11月:フランスがオランダに宣戦布告 ⇒)フランスはウィレム3世を英国王と認め、ネーデルラントのすべての占領地から撤退。以後、フランスと国境を接するスペイン領ネーデルラントに、オランダ軍を駐留させフランスを牽制(障壁都市)。
参考資料
書籍:
図説オランダの歴史 (ふくろうの本) [ 佐藤弘幸(オランダ史) ]
物語オランダの歴史 大航海時代から「寛容」国家の現代まで (中公新書) [ 桜田美津夫 ]
オランダ小史 先史時代から今日まで [ ペーター・J・リートベルゲン ]
A short history of the Netherlands A short history of Amsterdam
Wikipedia:Maurice, Prince of Orange Johan van Oldenbarnevelt Dutch East India Company Second Anglo-Dutch War Michiel de Ruyter Dutch Republic Generality Lands Grand Alliance (League of Augsburg)
金獅子亭:ミュンスター条約とウェストファリア条約 フレデリク=ヘンドリク・ファン・オランイェ=ナッサウ 宗教論争からクーデターへ
系図の迷宮:人名言語変化対照表